忘れていた、黒猫を弔った日を、思い出した
0時前に目が覚めてしまった。21時頃、軽い気持ちで横になったところ、うっかり寝てしまったのである。体が火照ってはいるものの、何週間もの眠りから目覚めたように目が冴えている。長い夢を見ていたみたいだ。ここのところ数日は特に暑く、梅雨もまだ来ていないのにそうめんを食べたり、日焼け止めを買いに行ったりして、もう夏の気持ちでいる。体がまだ適応していないせいかずっと体が重たかったし、長かったGWも相まって、五月病的なものにかかっていたのかもしれない。
夜中に目覚めてしまった時にはいつも本を読んでいる。今日は漱石の「永日小品」を読んでいた。〈猫の墓〉の段を読んで、ふと4年前に黒猫を弔ったことを思い出した。昨日この文章を書いたときには全く思い出しもしなかったのだが、この思い出しもしなかったということ自体がある意味を帯びている。今私は猫の「えん」の中にいる。
4年前の春、学校の授業に出ようといつもの道を自転車で駆けているところだった。たしか新学期の初日、1限に向かうところで、何としても出席し、生活リズムを作って行かねばならない、と急いていたように記憶している。河川敷を上がったところに走る、川沿いの一方通行の道は通勤・通学者の多いルートだ。その道を通っていたところ、車道のど真ん中に血まみれの黒猫が横たわっているのを発見した。アスファルトには血だまりができており、顔も潰れていたようだった。その横を、何食わぬ顔で通過していく自転車、バイクにやりきれない思いがした。その猫、猫だったものに、いや、そんな局所的な何かではなく、そこにあるナニカに呼ばれているような気がしたのだった。一旦猫を少し道端の方に避けておき、シャベルを取りに家に帰ることにした。数分前に私を見送った母は驚いたことだろうと思う。今学期こそはちゃんと学校に行くだろうと思っていたはずである。そこへ私が血に濡れて帰ってきた。私はシャベルを持ってもう一度、二度目の通学をする。
さいわい、猫が轢かれていた道路沿いには河川敷にありがちな桜並木と空き地があったので、そこへ埋めることにした。猫を抱き、スーツと制服の群れに逆行するようにして、広く、でも目立たない、土の柔らかそうなところを探した。黒猫は重かった。猫は妊娠していたようで、腹が大きく膨らんでいた。私は前の投稿で書いたように猫を飼ったことがないが、こんなにも重いものかと信じられなかった。片手で支えるのは一苦労で、その血が服につくのを承知の上で体で抱え込まないと運べなかった。脱力した「それ」がもう生きておらず、水分の多さゆえ運びづらい「モノ」になっていたから、重かったのかもしれない。
適当な桜の木の根元を見つけたので、そこに穴を掘って、埋めた。石を置き、水を掛け、合掌をした。葬いの様式のことはよく知らないが、こうすることが自然に思われた。かつて生きていたもの、今は死んでしまったものに対するこの一連の手続きには、必然性が感じられたのだった。血まみれのまま通学するわけにもいかず、埋めた後、一度家に帰った。母は私に塩を振ってくれた。塩が本当に「邪悪なるもの」を除くという、それは迷信である。だが、塩を振るという行為によって、「ケガレ」、この世ならざるものを仮構し、この世の存在である私からそれを時間的空間的に区劃する、ということ、それは長らく「私たち」にとっての必要、必然であった。
今も同じ通学ルートを使っているが、もう2年以上猫の存在を忘れていたようだ。私たちは忘却することで生きているが、同時に、忘却されることはひとつの死である。あそこに穴が掘られていて、そこには猫が埋まっていること、そこに据えられている石は実は墓石であるということ、私以外の人間は誰も知らない。猫は息を吹き返し、今また私の中で生き始めている。
ふと忘れたものが偶然思い出されることがある。おそらくそのとき、世界へのモードが変わっている。その記憶が改変される地平で、忘却することで生きていく私の生と、忘却されゆく今は亡きものの死の境目が再構築されていっているのだろう。
私が猫を観念的に愛でたいと思うのは、猫を弔った経験を孕んでいるからかもしれない。それが忘却(あるいは抑圧?)されることによって、実物の猫を忌避するようになっていた可能性がある。当時の私は今から思うに「不健康な」時期であった。猫の死を思い出している今、私はもう一度過去をやり直そうとしているのかもしれない。母が私に塩を掛けた日から、私はこの家で(あるいは他の場においても)他者としての自覚を強めたし、死の匂いに惹かれることが増えたのも確かだと思う。塩は「あなた」と「こなた」の境を綺麗になぞりえなかった。猫を弔っているときの私は大いに私であった。その私が変なところで分裂しているような気がする。一部を「あなた」に明け渡したような、そして同時に「あなた」のものをこちらに持ち込んでいるような、そんな状態のままなのではないか。もう一度、やり直すときなのかもしれない。
墓を訪ねようと思う。夜が明けたら。
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