満天の星を見下ろして
スマホを開けば満天の星が広がっている。食べログ、Filmarks、Googleマップにブクログ。五点満点で並ぶ星々。明るい方へ、多い方へと人が流れていく。
食べログは飲食店のレビューサイトだが、星の多い店には多くの客が訪れ、そうでない店には人があまり訪れない。いい店が人を呼び、悪い店が人を呼ばないというのは当然のことで、このようなサービスがあることで、潜在的にいたはずの客が来るようになり、潜在的には来るべきでなかった客が遠のくようになる。サービスは都市において人々が店を探す条件を可視化しているに過ぎない。
とはいえ、である。私たちは全ての行動をスマホ端末に依存しているわけではない。散歩の途中でふと入りたくなって店に行くことがある。そのようなときに、食べログを参照しないでいることは簡単ではない。
他の人がどう思っているのかを気にしてしまう。ここがいい店なのか悪い店なのか、どうせ同じ食事なら少しでも満足したい、そう思うのは自然なことだ。
彷徨しているうちに「いい店」に出会うことがある。食べログのような「客観的」な基準ではなく自分がいいと思う店だ。できればあまり人に教えたくないし、またこの空間、時間を味わいに来たいと思う。
でも、そのような「いい店」は他の人にとってもの「いい店」である。中にはレビュワーもいる。そうすると、その店の外観や内観、メニューや料理までが写真に撮られて、サービス上にアップロードされる。
そこは多くの人の目にも魅力的に映る。サービス上で見つけた人が大勢押し寄せるようになり、店は需給の法則に応えるようにしてサービスの「質をあげ」「メニューの金額をあげ」る。段々と店はマスに受けることを志向するようになる。
そうして店はもともとそうであったような店ではなくなる。かつての魅力は大勢にとっての魅力に取って代わられる。人気店となってしまって、並ばずに入ることが難しくなる。入ったところで長々とくつろぐことが難しくなる。そのうち、富める人しか通えないような「名店」になる。
誰が悪いのか、と考えても無駄なことだ。この趨勢は変わらないだろうし、「いい店」が大きくなることも悪いことではないだろう。レビューした人だって、いい店だから人気が出たらいいな、と思ったのかもしれない。
情報は共有物となった。知る人ぞ知るなんて店も食べログの俎上で誰もがアクセスできるようになる。
「本当にいいことだ。」