悲しくてやりきれないへと至る道①
左から、きたやまおさむ・はしだのりひこ・加藤和彦
アニメーション映画・この世界の片隅に。
主人公のすずさんはオープニングで、広島の中島本町のお店に、家業で作っている海苔を届けに行く。
たくさんの人が楽し気に行き交い、そんな町の雑踏の中で、すずさんは一人ベンチに腰掛けていた。
そこに、コトリンゴ氏の声が、静かにフェードインしてくる。
画面は空を流れる雲に切り変わり、タンポポが蒼空に綿毛を飛ばしている……。
後に原爆で滅びる街中をして、その雑踏の中でこの曲を流したのはとても印象的であり、現代を生きる人にこの歌が爆発的に認知された要因になった。
今回は、まさしく歌い継がれる「フォーク・ソング」と成った曲の一つである、「悲しくてやりきれない」についての記事を書いてみる。
この曲は非常に有名な曲であり、いたるところに情報がある。
まず、ザ・フォーク・クルセダーズというグループも伝説的な存在であるため、関連書籍を集めるだけでも大変な量になる。
わたしが書くものは二番煎じ、三番煎じ、
いやいやそれどころか出がらしだ。
各々ご理解されたうえで、ご一読願いたい。
そんな「悲しくてやりきれない」が世に出るまでの道筋を追ってみたい。
歌い継がれるフォーク・ソング~「悲しくてやりきれない」
まず、悲しくてやりきれないが初めて日の目を見た、シングル盤のジャケット。
悲しくてやりきれない(シングル)
発売:1968年3月21日
作詞:サトウハチロー
作曲:加藤和彦
レーベル:Capitol Records / 東芝音楽工業
収録曲
A面:悲しくてやりきれない
B面:コブのない駱駝
ジャケットをよく見てみると、「アングラの旗手! 自信の第2弾!!」と銘打たれている。
第2弾ということは第1弾があるということです(小泉リスペクト)。
第1弾はなんだ。
アングラとはなんじゃらほい。
アングラは後ほど嫌と言うほど話に出てくるので、
今は頭の隅に追いやってくれてかまわない。
なので、まずは第1弾にフォーカスしてみよう。
ザ・フォーク・クルセダーズはこの第1弾シングルで、日本初のミリオンヒットを飛ばしている。
日本初。もう一度いう、日本初だ。
悲しくてやりきれないへ至る道しるべとしてそそり立つ曲が2つある。
これをわかりやすく集中して語るのに、記事を以下のごとく、3つに分けることにした。
1、ザ・フォーク・クルセダーズの結成から解散
2、「帰ってきたヨッパライ」によるフォークル旋風
3、「イムジン河」から「悲しくてやりきれない」
今回は「1」のザ・フォーク・クルセダーズの結成から解散について語っていく。
なお、ぶしつけながら敬称を略させていただくことをご了承願いたい。
時は1965年。
1964東京オリンピックの翌年にまで遡る。
1965年とザ・フォーク・クルセイダーズ
~第一次フォーク・クルセダーズ結成~
1965年。
オバケのQ太郎やジャングル大帝のアニメが始まり、5年後に大阪万博が開催されることが新聞の一面を飾っていた年。
京都の龍谷大学の1年生だった加藤和彦という青年が、ファッション誌「MEN'S CLUB」9月号の読者欄に、短い文章を投稿をした。
当時、アメリカではすでにブームを迎えていたフォーク・ソングが、少し遅れて日本でもその芽を出し始めていた。
素朴で美しいコーラスをする、新しいのにノスタルジックな音楽。
伝統的なメロディや詩を使って、自らアレンジを入れ、自らが歌い、クレジット表記は民謡となっているのに、自らの楽曲にしている斬新さ。
もちろん自ら作詞作曲した曲もある。
日本では音楽とはプロが作るもので、プロのものが聴衆に与えられる、というのが当たり前だったから、一つのカルチャーショックだったろう。
それをやっているのが海を渡った先とはいえ、20そこそこの若者だったのだから、大学生たちは魅了された。
これは、ビートルズも同じだった。
ビートルズの場合はロックとして、完全に自分たちの曲を自分たちで歌い、世界で大ヒットしていた。
両者の相違は、
フォークには
過去から歌い継がれていた歌を現代に発掘し、現代風にアレンジして、再び若者のものにしようという伝道者のような思想があった。
ビートルズは
次々を新曲を作り、ステージ上の人として売れていった。
という点だろう。
もちろんそれだけではないのだけれど、あくまで両者の違いは、ということで。
こういう背景もあり、大学生たちは、自分たちでギターを持ち、歌を歌った。
そして、ビートルズをやるには機材を買わなければならないけれど、フォーク・ソングならばアコースティックで、身軽に、必要機材も安く抑えられる。
人前に立って、注目を浴びられる。
しかも、作詞作曲の専門知識がなくても、歌い継がれている歌をコピーすればよい。
大学生という人生の春休みを謳歌する手段として、まさにもってこいな音楽だった。
ゆえに、この時代のフォーク・ソングはカレッジ・フォークと言われる。
大事だからもう一回。カレッジ・フォークと言う。
カレッジ=大学。
アコースティック楽器を持ち、海外のフォークソングや日本の歌を美しいコーラスで歌い上げる形態だった。
コーラス=合唱曲ということで、みんなで歌い、一体感も得ることができる。加藤の募集記事にも、はっきり「フォーク・コーラスを作ろう」とあったはずだ。
とはいえ、まだまだフォーク・ソングは学生たちのもので、
音楽にそこまで興味がない人や、大人たちには、そこまで浸透していなかった。ビートルズや、生活で流れる歌謡曲というのは、ガッチリ日本の人々に根を張っていたということだ。
ビートルズはビートルズで、歌謡曲は歌謡曲で、立派な一時代を築いていた。
それに加藤和彦も、やりたい音楽こそフォークだけれど、ビートルズが好きだった。
加藤が暮らす京都も例外でなく、多くの若者がグループを作り、あちこちでライブをしているような時勢。。
若者向けに、アマチュア・フォーク・グループを紹介するラジオ番組なんかも、ちらほらと放送され始めていた。
そんなわけで、まだマイナーだったフォーク・ソングをやろうと誘う記事に、4人の、やはり若者が反応する。
京都府立医科大学の学生だったきたやまおさむ。
浪人生の井村幹夫。
そして高校3年生の平沼義男と芦田雅喜。
加藤和彦のもとに4人の男が集まり、当たり前だが加藤を併せた5人で、フォークグループが結成される。
このグループこそが、第1次ザ・フォーク・クルセダーズ(この時はザ・フォーク・クルセイダーズ)だ。
注意したいのは「クルセイダーズ」ではなく、「クルセダーズ」が正しい表記(とある会社がクレセイダーズと表記しているのも見たことがある)。
しかし、第一次は「クルセイダーズ」が正しい表記なのだからややこしいことこの上ない。
ややこしいのでザ・フォーク・クルセダーズを基本として、略称「フォークル」で統一させていただく。
彼らは「世界中の民謡を紹介する」というコンセプトで活動を開始する。
上述した、大学生がギターを持った理由と合致しているのがわかるだろう。
このインタビューによると、ジャズ・クルセイダーズという海外バンドをモジったという意味もあるようだ。
じゃあなんで「イ」を抜いたの……。
ん?
いやいや待て待て、第1次ってなんだ。
これはあくまで俗称であろうが、本人たちもそう言っているのだから、ありがたく使わせてもらおう。
以下、余談である。
▽フォークルの変遷
フォークルというバンドは4回ものメンバーチェンジを行っていた。
活動時期やメンバーが変わってくるので、それぞれを第〇次と区別しているのだ。
ちなみに「悲しくてやりきれない」を発表したのは〔第2次〕フォークル。
なので今回フォーカスするのは第2次まで。
とはいえ、言ってしまってポイッと放るのは申し訳ないので、一応全活動期間のメンバーをまとめてみた。
第三次と第四次は、人によってはそれだけで悲しくてやりきれないものだが、まだそこまで時代が進んでいないから、ぐっと我慢。
話を戻そう。
結成された第1次フォークル。
「世界中の民謡を紹介する」と言ったって、
インターネットでコード譜が見られる今と違い、曲のコピー1つするのにも耳と指で憶えなければならない時代。
文字通り血のにじむような練習を重ね、結成からわずか1ヶ月後、京都の教会で行われたコンサートで初舞台を迎える。
その後も学園祭などを中心に舞台に立つも、芦田と井村は受験勉強のため2ヶ月で一時脱退。
翌年春に、大学に進学する芦田が再加入するまで、加藤・きたやま・平沼の3人での活動になる。
彼らは若者。新しいものが好きで、情熱的で、お笑いが大好きだった。
だから彼らの舞台というのはコミカルで、話芸やパフォーマンスで笑わせに行った。
ゆえに彼らは「笑いのフォークル」なんて言われ、それなりに名前を売っていくことになる。
そんなアマチュア学生バンドの彼らを見出し、東京までライブに連れて行った人物がいる。
秦政明なる人物だ。
彼は関西で活動していたプロモーターで、静かに熱を持っていたフォーク・グループのライブを主催したり、ブッキングなんかを生業としていたのだが、今は気にしなくても大丈夫。
「そういうひとが居たんだな」ぐらいにとどめておいてくれればよい。
さて、第一次フォークルが結成して1年経った1966年。
大学生を中心としたブームのフォーク・ソングが、世間一般に大きく認知される、大きな大きな出来事があった。
マイク眞木のバラが咲いたがリリースされた。
閑話:マイク眞木の登場
それはフォークルの結成から一年経った1966年。
それまでマイナージャンル扱いだったフォーク・ソングが、世間に大きく認知されることになる出来事があった。
和製フォーク第一号と今に謳われる、
マイク眞木の「バラが咲いた」がリリースされたのだ。
作詞作曲:浜口庫之助
1966年4月に販売されたこの曲は、
大学生を中心としたフォーク・ソングの人気に目を付け、レコード会社が動いた象徴として今日に語られる歌である。
しかしこの曲は作詞作曲に浜口庫之助という人物だ。
彼は1966年当時、すでに作詞作曲者として名を馳せており、いわゆるプロだった。
なのでフォークソングであるけれど、プロと聴衆、日本の音楽業界の仕組みからは脱してはいない、ということになる。
こう言ってしまっては角が立つかもしれないが、あくまでプロが作った「フォーク・ソング調」の楽曲と言ってしまえる。
とはいえ、このバラが咲いたがお茶の間でも大々的に流れるようになり、フォーク・ソングというジャンルが広く認知される金字塔的な曲であることは間違いがない。
この曲は30万枚、累計で80万枚を売り上げるヒットを飛ばし、マイク真木はデビュー曲でありながら、この年の紅白歌合戦に出演する。
この曲を皮切りとして、大学でフォーク・ソングを歌っていた人らが、次々と表舞台に立つようになる。
そのうちのいくつかを紹介する。
■ザ・ブロードサイド・フォー
映画界の巨匠、黒澤明の息子(!)が所属していた。
時間は前後するが、
1965年、彼らは日本で初めて、フォーク・グループとしてアルバムを出している(アルバム時のグループ名はザ・ブロードサイド・スリー)。
これが当時の大学生によるカレッジ・フォーク・グループがどんなものだったかをよく物語っているから、その内容を見てみよう。
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▽グッド・ナイト・アイリーン
・・・・・・アメリカのフォーク・ソングで、数々のひとがカバーしている。
▽コットン・フィールズ
・・・・・・同じくアメリカのフォーク・ソング。
▽風に吹かれて
・・・・・・ボブディランという人が歌って当時ヒットしていた。原曲は黒人霊歌。アメリカ(以下略)
▽わが祖国
・・・・・・ウディガスリーという、ボブディランの師匠的な存在の人が作った歌。アメリカでは国歌レベルに有名。
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この通り、当時のフォーク・ソングというのはカバーが中心だったというのがわかるだろう。もちろん、歌詞は英語で歌っている。
マイク眞木のデビューのあと、このグループもレコード会社からオリジナルを発表し、和製フォーク・グループとしてヒット曲を出した。
それが1966年9月に発売の「若者たち」。
マイク眞木のバラが咲いたから5ヶ月後のことである。
作詞:藤田敏雄
作曲:佐藤勝
まるで映画主題歌か、さすがだな黒沢息子。
と思うほどのイントロは束の間、
従来流行っていたフォーク・ソングと同じように美しいコーラスが始まる。
黒澤明が「俺の息子が音楽をやっている」と、
同名ドラマ「若者たちよ」の音楽を担当していた佐藤勝に紹介したのが、このザ・ブロードサイド・フォーだった。
そして、作詞の藤田もメンバーではなく、プロである。
ゆえに流れはまだまだ、「フォーク・ソング調」だ。
最後に、
今を活躍する森山直太朗の母、森山良子。
彼女は1967年1月2日、「この広い野原いっぱい」という曲でデビューしている。
作詞:小薗江圭子
作曲:森山良子
なんと、作曲者が本人である。
この曲はちょっとイレギュラーで、ラジオ番組でリスナーから送られてきた詩に曲を付ける、という趣旨のもと作られたもののようだ(文化放送番組レポから)。
小薗が書いた詩をたまたま見つけ、作曲の経験がない森山が大急ぎで作曲し、ラジオで反響があってレコード化。
しかもその番組と言うのが、時の人となっていたマイク眞木の番組というのだから、反響が多かったというのも納得だろう。
この曲は番組の企画から生まれた曲として、
作曲が本人の曲とはいえど、やはりイレギュラーなものとして見て良いだろう。
マイク眞木も、ザ・ブロードサイド・フォーも、森山良子も、学生時代にフォークソングを歌っていた経歴がある。
フォークルと同じように、彼らも学生たちの中で歌っていた。
海外の曲や、日本の曲を、コピーして歌っていた。
自ら作詞作曲していないのを悪し様に言っているわけではない、というのを理解していただきたい。
なぜなら、この下地はのちのち、フォークルに大きな追い風を吹かせ、のちの世に残る名曲すらも生み出すことになる、大事な下地なのだから。
あっさりとした第一次フォークルの解散
さて、「フォーク」という言葉がお茶の間に浸透した1966年春だけれど、
ここで大阪外国語大学に進学をキメた芦田がメンバーに復帰し、フォークルは4人体制になる。残念なことだが、井村は戻ってこなかった。
この4人体制でフォークルは多くのライブに出演していく。
その一つ、1966年5月。
同じく京都の大学生で結成されたドゥーディー・ランブラーズとフォークルを中心として、学生フォークの活動団体「A.F.L(アソシエイテッド・フォークロリスト))」を発足。
ドゥーディー・ランブラーズには、端田宜彦が参加していた。
端田宜彦、はしだのりひこ。
どこかで見たことがある字面だろう。
フォークルのメンバー変遷まで、少しスクロールして戻ってみてほしい。
8月には件の秦政明主催
第一回「フォーク・フォーク・フォーク」に出演。
12月には若手バンドやアマチュアも出演するTV番組「ヤング720」にも登場する。
精力的に活動していたフォークルだったが、
1967年。
3年生となった加藤和彦をはじめ、彼らは、将来の道を見定めねばならない時期を迎えることになる。
大阪外語大学の芦田が留学のため、2度目の脱退。
きたやまも医学の道への興味を強くして勉強に専念、
平沼も家業を継ぐ道を見ていて、
加藤もフランス料理のコックを目指して就職活動を始めていた。
全員が音楽とは関係ない方向に歩き始めようとしていた。
解散という言葉が彼らの周りを漂うのは当たり前のことだろう。
けれど、せっかく2年も活動したのにただ解散するだけでは味気ない。
そこで、彼らは解散記念としてアルバムを制作することを決める。
レコーディングに向けてさまざまな舞台に上がるフォークル。
それでも足りない分は、開業医であるきたやまの実父から20~30万ほど借金することで捻出した。
1967年の大卒初任給が2万5000円ほど、コーヒー一杯80円だというのだから、いかに思い切った借金だったかがわかる。
そんな莫大な金額を大学生が借金してまで捻出したというのに、それでも「お金がない」。
アマチュアで音源を発表するというのは難しい時代だったとわかる。
そりゃそうだ。
音楽とは会社が発行するもので、プロの歌が聴衆に与えられる、というのが当たり前だと前述した。
彼らのようなアマチュアの大学生が自費出版するのは珍しかったと言っていい。
彼らがそんなプロを目指すことなく、後腐れなしに解散に進んでいったのは、初めから一過性の、誰にでもある青春を、音楽活動という形で謳歌していただけだから。
まるで夏休みに悪だくみするいたずらっ子みたいだけれど、青春って、そんなことのような気がする。
卒業式の前日に、校庭に忍び込んで学年全員からかき集めた花火を全部一気に打ち上げたら、めっちゃきれいだし思い出に残るよね、みたいな。
2年前に「MEN'S CLUB」に募集記事を載せたのと同じ月。
1967年8月に、彼らは解散記念アルバムのレコーディングを開始する。
1965年に加藤が呼びかけ集まった若者は
1967年の10月、1枚のアルバム「ハレンチ・ザ・フォーククルセイダーズ」を完成させた。
そして解散コンサート「バイバイ・コンサート」を行い、主だって音楽活動することを辞めた。
かれらは間違いなく、思い出に残る青春を送っていた。
しかし、この思い出に残る青春が、のちの世に残る記録を打ち立てるというのを、このとき、まだ誰も予想だにしていなかった。
まとめ
1965年の第一次フォークル結成から、
’66年のマイク眞木の登場、
そして’67年の解散まで、ざっと駆け足で追ってみた。
もちろん、この後ろではいろいろなフォーク・ソングの流れがある。
今回も軽くカレッジ・フォークと他のアーティストに触れたが、
他の流れを説明するのはまた今度だ。
密接に絡んでくるから、
たとえば前作の主人公が続編でチラっと出てくる、みたいな楽しみかたができるはず。
さて、まずは今回の年表を見てみよう。
もちろん、記録に残っていないライブにも出ているだろうし、「ああいう会話があった」「こんなところにいた」「あんなことをしていた」という思い出を持っている人もいるだろう(わたしはそれが知りたい)。
とにかく今回の記事で憶えていただきたいのは、
フォークルが結成されたころ、
アメリカで流行っていたフォーク・ソングをコピーして歌う、
カレッジ・フォークが大学生の間に流行していた。
ということだ。
美しいコーラスとアコースティック楽器。
それは、悲しくてやりきれないに通じている。
さて、年表の最後に注目していただきたい。
解散コンサートを終えた二か月後、
東京・久保講堂にて「帰ってきたヨッパライ」を歌う。
彼らがアマチュアのまま終わっていたら、こんな長い話にはならないのだけど、そうはならなかった。
悲しくてやりきれないへと至る道、その道しるべの一つ、
「帰ってきたヨッパライ」。
次回の記事では、アマチュア学生バンドの曲がなぜ日本史上初のミリオンヒットをたたき出すに至ったのかについて語っていきたい。
長々とした記事を読んでくれてありがとう。
もし、わかりづらいところや、読みにくかった場合は遠慮なく教えてください。
フォローやスキなどしていただけるととても励みになりまする。
では、また次の記事で。