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南京・夫子廟——いつか消えていくもの

南京で観光といえば、やっぱり夫子廟エリア。

孔子を祀る廟や、中国最大の科挙試験場の跡地も残る歴史的な場所。
でも、実際に足を踏み入れてみると、厳かな雰囲気よりも、むしろ雑多で賑やかな繁華街といった感じ。1983年に行われた大規模な改修と整備で、古いものと新しいものが混じり合う楽しい観光地になっている。

現代的な商業施設もあれば、伝統的な市場の雰囲気も残る。
まるでお祭りみたい。
孔子の像が鎮座する大成殿。
ここだけは静かで厳かな空気漂い、かつて学問の聖地とされた名残が感じられる場所。
科挙に挑む人々は、合格を願って必ずここに参拝したという。
日本でいうところの天満宮みたい。

昔ながらの街並みの中に、お土産屋や雑貨屋がぎっしり並び、その合間にはペットショップまである。このごちゃごちゃ感が面白い。

カゴの中では色とりどりの小鳥がさえずり、ガラスケースの中では小さな蛇がとぐろを巻いている。

鳥(文鳥やインコなど)を飼う文化は南京を含む中国の都市部で根強い。
蛇はぎゅうぎゅうに詰め込まれて。
「蛇などの小動物は薬膳・伝統医学の影響で売られていると思う」
と中医大の学生は言う。

そのすぐそばには、南京の伝統食を売る屋台がずらりと並んでいる。鸭血粉丝汤や盐水鸭などの南京名物に加え、羊肉串、糖葫芦、臭豆腐、肉まんや小籠包、白玉や焼き餃子などが売られていて、香ばしい匂いがあちこちから漂ってくる。観光客向けの店だけど、地元っぽい人たちが普通に食べ歩きしているのを見ると、やっぱりここは市民にとっても生活の一部なんだな、と感じる。

そんな雰囲気を楽しみながら歩いていると、店員のおじさんが、一緒にいた男子留学生に向かって、
「小伙子,过来看看吧!(お兄さん、ちょっと見て行って!)」
と声をかけてきた。
「小伙子」(シァオフォウズ)は、兄ちゃん、みたいなカジュアルな呼び方で、百貨店みたいなフォーマルな場所ではあまり使われない。最初聞いた時は音が似ている「小猴子」(シァオホウズ=猿)に聞こえて、「え、今私たち、猿って呼ばれた!?」と内心ざわついた。
でも、庶民的な市場ではごく普通の言い方で、それがまたこういう場所らしさだなと思う。

大樹の木陰では、店主たちが麻雀に興じてる。
大きな店やチェーン店は、客引きを雇って積極的に呼び込みしてる一方、
個人経営の店は商売熱心というより、のんびりした空気。

ここから3~4kmほど北西へ歩けば、新街口。
南京最大の繁華街。高層ビルが立ち並び、ブランドショップやデパートがひしめいていて、一気に都会の雰囲気になる。金融やビジネスの中心地。確かに便利で華やかだけど、どこか画一的で、他の都市の繁華街と大きな違いは感じない。新しいビルや店舗が次々に建ち、広告の景色もあっという間に変わる。そのスピードに驚く反面、夫子廟のような、歴史と庶民の生活が入り混じったのんびりした雰囲気は、今後、ますますスマートな商業っぽさに置き換わっていくんだろうな、と予感させられる。

不便さに文句を言い、利便性を求めるくせに、その土地ならではの雑多で素朴な雰囲気も味わいたいと思ってしまうのだから、どこまでも他人事で、呑気な感覚だとは思うのだけど。

江南貢院

江南貢院の入り口。
現在は博物館になっている。

中国最大かつ最古の科挙試験場だった江南貢院の門には、 「明经取士,为国求贤」 という文字が大きく彫られていて、学問を通じて人材を選び、国のために賢才を求める 、というような意味が込められている。
「明经」とは、唐代の科挙制度にあった「明経科」のことで、儒学の経典を中心にした学問のこと。それはつまり皇帝の意に沿う有能な人材を選抜し、国家を治めるために登用する、という思想の反映。

秦淮河と遊覧ボート乗り場

かつての南京の中心地は新街口ではなく、この秦淮河周辺だった。

夫子廟を流れる秦淮河は、別名「南京の母なる川」。車や鉄道がなかった時代は水路こそが交通と経済の要だった。商人や学者たちの往来が絶えず、都市の発展とも深く結びついて南京の発展を支えた。

この秦淮河沿いには貴族の邸宅が立ち並び、文化や芸術の中心地でもあったという。その影響から、この地では多くの故事成語が生まれた。

この地に由来する故事

書聖・王羲之の「東床坦腹」(王羲之が婿選びの場で他の若者たちとは異なり、リラックスして腹を見せながら座っていたことが、かえって彼の自然さや非凡さが際立ち、それが評価されて婿に選ばれたという話)や、「画竜点睛」(南京の画家・張僧繇(ちょう そうよう)が安楽寺の壁に龍を描き、最後に瞳を入れた瞬間、龍が天に昇ったという話)、そして、「竹馬の友」という言葉の由来も、この辺りにあるという説がある。かつて、秦淮河周辺には多くの子どもたちが住み、竹馬に興じたり、川辺で遊びたりしながら成長していったそう。

今ではそんな文化芸術の発祥となった川沿いの古い街並みをボートに乗って遊覧できる。そして、船の渡し場と言えば「桃叶渡」が歴史的に有名。

父である王羲之とともに「二王」と称された王献之と、その愛妾・桃葉とのロマンスから生まれた「桃叶渡(桃葉の渡り)」の話にちなんで、石碑が建てられている。
妾といっても不倫なんかじゃなく、当時の東晋時代(日本では古墳時代頃)では、身分の高い人物が側室を持つのは一般的だった。
男女の距離が今よりもずっと厳しく制限され、女性の身分も低かった時代。そんな中、王献之は何度も自ら船を出して桃葉を迎えに行き、彼女を大切に扱った。その美しいイメージが人々の心に残り、今でも語り継がれている。

彼が桃葉に贈ったとされる詩が、

桃叶复桃叶,渡江不用楫。
但渡无所苦,我自迎接汝。

桃葉よ桃葉、川を渡るのに船の櫂は必要ない。
川を渡るのに心配はいらない、私が直接川辺であなたを迎えるから。

当時、秦淮河は川幅が広く流れも急だったと言われている。でも、「櫂はいらない」という表現は、現実の描写ではなく、「私の想いがあなたを迎えに行く」という桃葉へのまっすぐな気持ちを込めたもの。

中国古詩は、風景描写や象徴的な表現に深い感情を込めて気持ちを伝えるもの。この詩に込められたのは、単に「迎えに行くよ」というシンプルなメッセージではなくて、「あなたを愛しているから、どんな障害も乗り越える」という王献之の心からの誓いのような想い。当時を代表する名士であった彼が、こんなにも率直に愛を詠んだこと自体が、すごく素敵だな、と思う。
この桃葉渡はその後人々にとってインスピレーションの源となり、多くの芸術がうまれた。


2004年7月

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asha
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