文系? 理系?の区分け...。それって意味ありますか?
むかーーしからあるこの文系/理系の棲み分けの話。学生の頃は、文系コースとか理系学科とか、いろんなところで聞いた区分だけど、社会人になってからこの区分って本当に無意味だなーと思う。プログラマーには、文系大学出身の人が意外と多いというのはよく聞く話しだ。
先日とある記事で、何かのアイデアを考えるときには、文系の人と理系の人が両方いた方がいいというネタがあった。正直意味がわからないと思った。恐らく、理系=エンジニア系であり文系=非エンジニア系というざっくりとした区分けがあり、エンジニアばかりでアイデア出しをすると実現方法から思考してしまうため、スケールが小さくなるというリスクがあり、非エンジニアは実現方法なんかそもそも分からないので大きく考え、柔軟なアイデアが生まれるという話をしたいのだと思う。さて、これは真実だろうか?
僕は、少しは意図は理解できるが、本来言いたいことと合ってないと思っている。良いアイデアを生み出したいと言うことがゴールなのであれば、一番は「誰のどんな課題を解決するアイデアなのか?」「誰のどんな期待を実現するアイデアなのか?」をまず考えるべきだと思う。その上で、「誰の」という部分に相当する人と、その解決策を提供する人がアイデアを侃侃諤諤(かんかんがくがく)議論して絞り出していくという方法が正解だと思っている。当事者意識を持った人がアイデアの発起人であるべきで、それを実現する人がそのアイデアを膨らませ、研ぎ澄ませ、実現に値するアイデアにしていくのだ。そこに、理系とか文系とかという的外れな区分は存在しない。
「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない」
上記は、米国人作家、レイモンド・チャンドラーの小説「プレイバック」に登場する私立探偵のセリフだ。
僕は、アイデア創出の場面でいつもこの言葉が頭に浮かぶ。アイデアも同じだと思ってしまうのだ。
アイデアとして「強い」とは、僕は実現性だと思っている。調査と分析とFeasibility Studyを十分に重ね実現されるアイデアかを考える必要がある。しかし、そもそもその前に、そのアイデアは「優しい」のか?アイデアを実現しカタチにした時に、誰かを笑顔にするものなのか?それがなければ、このアイデアは世に生み出される資格を有していないのだ。