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言葉の値打ちを決めるもの ~はしぼう歌会(7/31)ふりかえり~

歌会のふりかえりです。

『二人して調べてないけど旅に出る』
今だけは旅人である心象を高らかに歌えストローハット
帰らずに住んだ場合のことなどを話していよう、つぎの駅まで
未来などなくてもふたりは大丈夫 泉の澄みに硬貨を投げて

今回のテーマは「旅」でした。
僕はいわゆる「百合漫画」というものを愛好してよく読んでいるのですが、ここで描いている旅というのも、なんとなく社会に収まりきれずにいる(ある意味ア・モラルな)ふたりの逃避行をイメージしています。

他のメンバーの感想として、作中主体ふたりが「女二人」であることをもっと前面に出しても良かったのではないかという意見が多かったです。
今になって思うと、絶対にその方がよかっただろうなぁ。

短歌に限った話ではないのですが、作品をつくっていると、時々、
なにが言わなくても伝わることなのか、
なにが言わなきゃ伝わらないことなのか、
それが分からなくなってしまうんですよね。

言わなくても伝わることをいちいち書くのはどうしても野暮に感じてしまうし、かといって、伝わる人にだけ伝わればいいというスタンスは自分の望むところではないし……

ここがひとつの鬼門ですね。

あと、ノスタルジーとロマンチシズムに頼りすぎだという指摘は、正直、自分がいちばん痛感しているところでもありますね。

ここを超えた先にある「あさげ ver.2.0」的なものがなんなのか、あらかじめそれを知ることはできないというのが、創作のさらに大変な部分。自分が一皮剥けた感覚って、作品が完成して後から振り返ったときに分かるものなので。

ちょっと話は変わるんですが、僕は小説家の平野啓一郎さんという方がとても好きで、彼の創作論や文芸論を読む機会も多いです。

平野さんは言います。
「凡庸な人間が自分と同じようなことを感じていたり発言しても、人は揺さぶられたりしない。自分から見て〝すごい人〟の中に自分と同じものがあると知るときに、人は強く感動するのだ」と。

僕はこの考え方に長らく疑問を感じていました。
というのも、僕自身は身近な友人との会話の中で誰かの言葉に強く共感し、感動することがとても多いです。
そういう人間としては、すごい人の言葉でなければ他者に影響力を持たないという考えがいかにも権威主義的で、ダサい価値観だと思っていました。

けれど最近は、この言葉の意味には、もっと深い側面があると感じるようになりました。
きっかけは、同じく僕が敬愛するカリスマホスト・ローランドさんの言葉です。彼は、次のように言います。

「僕は自分にできないことができる人をみんな尊敬する。アニメの声優も、僕にはできないことだからこそ、愛し、尊敬できる」

実業家としても成功し、まさに当代のカリスマであるローランドさんにとって、声優という存在がそれだけの価値を持っているということ。
その事実を知ったとき、僕は、先述した平野さんの言葉も改めて考えさせられました。

僕が身近な友人の言葉に強く共感するのは、彼らを無意識に尊敬しているということの裏返しなのではないか。
そうであれば、どんな人でも、誰かにとっての〝すごい人〟になり得る。
だから、おおむね凡庸な僕らもまた、なにかを創ることに意義がある。

多くの人が、短歌の愉しみの中に〝共感〟を見出している。
しかし、穂村弘は「共感をねらうにしても、一度、ワンダーの感覚を経由しなければいけない」と言っています。
僕が大事に思っていること、伝えたいこと、それがどうすれば誰かを揺さぶり、共感してもらえるのか。
そこにはやはり、短歌主体を凡庸な存在ではなく、〝すごい人〟だと感じさせるワンダーが必要になるのでしょう。
このあたりの考えは、まだまだ深める余地がありそうです。

次回も実りある歌会になりますように。

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