もう年の瀬、小説は書けなかった。けれど、使命は見つかった。
夏ごろ、こういう日記を書いた。
久しぶりに読み返して思ったのは、この頃の僕はとにかく創ることに対して焦りがあって、余裕が無かったんだなぁということ。
あのあと、何本もプロットを書こうとして、全部ボツにした。
そうやって言葉にしてしまうと、ものすごく無為な出来事のように思えるだろうけど、僕の中では絶望的な状況だった。
15歳のときに初めて小説を一本完成させて、高校の文芸部に入部して、それからというもの、「俺は小説をかける人間だ。」というアイデンティティだけが自分の救いになってるような人生を送ってきた。
一方では、学生演劇とか、短歌とか、色々やってきたけどやっぱり僕は小説の人間なんじゃないかという思いが常にあって、だからこそ短歌は作れるのに小説だけは書けないという状態がもどかしかった。
社会に出て色々と苦労もあり、その中で新しい人間関係が生まれて、そうかと思えばコロナ禍を迎えて友達と簡単に会えない状況になったりもして、ただ生きてるだけでも書きたいことは山ほどあった。それを物語にするだけの力が無かったといえばそうなのだが、能力の問題以上に、気持ちとして、自分の感情を小説という〝フィクション〟に置換するモチベーションを失いつつあったのだと思う。
ちょうど同じ時期、大学時代の恩師に誘われる形で、僕の所属していたゼミが発行している機関誌にエッセイを寄稿することになった。
夏の緊急事態宣言が明け、世間がいくぶん落ち着きを取り戻した〝小康状態〟の頃だったが、大学はやはり混乱のさなかにあって、学生たちは図書館も満足に使えず、対面でゼミを行うのも難しいようだった。それで急遽、大学教員がゼミ生の研究意欲を鼓舞するために機関誌をつくることにしたので、OBとしてなにかメッセージを送ってほしいという趣旨だった。
僕がいたゼミというのは、国文学を研究するゼミであった。
文学を学ぶことは、時代の変化によって価値を左右されない〝不朽のことば〟を手に入れることだと、僕は信じている。だからこそ、困難な時代、不安定な社会の中にあっても、そういう状況だからこそ読むべき本があるし、綴られるべき記録があるのだということを、僕なりに真摯に書かせてもらった。
そして、こんなシンプルなメッセージではあるが、一部の教員や学生たちの励ましになったらしいことを、後日メールで伝えられた。
たぶん、この瞬間に、自分にとっての小説の位置づけがすこし変わった。
かつて、僕は小説の〝プレイヤー〟であることに、強く固執していた。
自分の書く作品にはそれなりに感動があって、誰かの心に刺さるものだということを強く信じていたし、それが自分の人生の喜びだと考えていた。
けれど、世の中には僕なんかが書く作品よりもよっぽど優れた作品がたくさんあって、それはまあ当然なんだけど、絶対に読まなきゃいけない小説というのも、確実に存在しているのだ。
しかし、書かれた年代が古いというだけで顧みられない名作は、残念ながら世界にゴマンとある。
しかもそれは、厄介なことに、誰かが積極的に紹介しなければ、まず読み返されることはないのだ。
この事実に直面したとき、小説の〝サポーター〟という言葉が閃いた。
それは単なる消費者ではなくて、文学と人をつなぐ架け橋のことだ。
めっちゃカッコイイこと言ってるようだけど、僕は学部生だろうと、中退者だろうと、文学を一度でもガチンコで研究したことがある人は、やっぱりサポーターなんじゃないかと思っている。
だから僕も、自分に可能な限り、小説に尽くすことにした。
幸い、恩師とのメールは、不定期ではあるが今も続いていて、先日はある近代作家の研究会がオンラインで開催されるからと誘われ、学会という場に約五年ぶりに参加した。このときの経験も、そのうちエッセイにまとめて、ゼミの後輩たちが読める形で発表できればと考えている。
僕にはまだ力が無いから、せいぜい同門の後輩たちの手助けをすることしかできない。けれども、こういう草の根的な活動がきっかけになって、もっと大きな形で小説や文学に貢献できるチャンスが来るのではないかと期待してもいる。
小説が書けなかった僕にできること。
それは、書き手としての僕が、本気でその才能に嫉妬した古今東西のライバルたちを世界に知らしめることだった。