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今日も「ことば」のことばかり考えていた。

いつにもまして雑記です。そういう気分だったので。

●丸1年、短歌で遊んでたなぁ
年の瀬を迎えようとしている。
去年の今時期は、ユニットという形ではなく不定期で「短歌バトル」なる遊びに興じていて、それが現在のような形に発展していくなんて考えてもみなかった。それは、「短歌バトル」に参加していた他のメンバーにとっても同じではないかと思う。
自分にとっては、短歌を作ることの意味と、歌会をやることの意味って全然別のところにあるんだけど、みんなはどうなんだろう。最近、はしぼう歌会はすごく大事な場所だなとますます実感する。でも、現状維持はマンネリの始まりだから、やっぱり変わらなきゃいけない。誰がって、自分が。
良い議論っていうのは、良い作品を前にしなければ起こらないものだ。高校の文芸部で活動をしていたときも、大学で演劇をやっていたときも、それは同じだった。はしぼうでも、自分が歌作の質をもっと上げて、良い議論が生まれるようにしていきたい。いつでも、動かす側でいたい。
来年もまだまだ遊べそうですね、短歌。

●読むことはだんだん難しくなっていく
歌人・山階基さんの歌に、こういうのがある。
   ゆるやかな帰路を急いで振り返るたびに花火が視界を埋める
あぁ、良い歌だなと思う。
この歌について、ある評者が言っている。「この歌では、主体がなぜ帰路を急いでいるのかという理由があえて空白になっている。それを勝手に推測するのは〝読み過ぎ〟で、書いていないことを読み過ぎるのは短歌の読み方として適切ではない」と。
僕はこの評者の言っていることが、すごくよくわかる。
短歌の読み方において〝豊かな想像〟と〝勝手な推測〟は全然ちがっていて、前者は自らの意志で行うテクストの意味づけ、後者は脳が無意識に作動するバイアスの呪縛だ。テクストとは、意識的に読むものであって、無意識に読まされるものではないと、ひとまずそういう結論になるかもしれない。
けれど、歌会をやっていると、自分の意志でテクストに意味づけをしてみても、それが作者の意図や本意とは乖離しているという場面がままある。そのたびに「あぁ、意図を汲めなくて申し訳ないな」と思う。短歌を読むという行為にとって、意識的にテクストの意味づけを行うことが正攻法にならないのだとすれば、正しい読み方とはなんなのだろう。
短歌を読むことはむずかしい。

●結局、「ことば」をどうしたいと言うのだろう
昔から本を読むのが好きだった。
きっかけといえば、それだけなんだと思う。先述したとおり演劇をやっていたこともあるし、遡れば吹奏楽をやっていたこともあるけど、そっちの方では大成することできなかった。
なにか他の表現方法にチャレンジするたび、「ああ、自分はやっぱり〝ことば〟が好きだな」と痛感させられる。
でも、自分はことばを通じてどういうことを伝えたいのだろうと考えるたびに、いつも迷子になる。根幹にあるのは「その痛みはあなただけのものではない」という共感性だと思うのだが、一人の人間にできるのは自己という人間の生を晒すことだけだという諦念も無いではなくて、じゃあ僕という個人の生を詳らかにすることがどれだけの人の励ましになるのかと考え出すと、いよいよ自信が無くなってくる。
けれど、それが本質的な救いじゃなくても、ことばが心を軽くしてくれる瞬間はあるんじゃないかと思う。世界はいつも薄暗いけど、自分の足元にすごく眩しい陽光が射し込むことがあると、それだけはちゃんと伝えられるようになりたいな。

最後まで読んでくれた方、ありがとうございました。

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