はしぼう歌会(6/26)ふりかえり
前回の歌会のふりかえりです。
「いやだ」ってちゃんと言葉にしないから私なんかに買われて、枯れて
この歌で、初めてMVPを受賞しました。
最近、はしぼうの中でホットワードになっているのが「コスパ」という言葉です。
みそひともじ(31音)の中で、いかにして音数を食わずに効果的な表現ができるか、くらいの意味だと僕は捉えています。
先に引用した僕の歌も、五句目「買われて、枯れて」のコスパの良さを褒める声がありました。
ただ、僕としてはこの下の句がちゃんと〝詩〟になっているのは、四句目の「私なんか」という卑下の表現あってこそだと感じています。
じゃあ、この四句目で「私」がどうして自己肯定感の低い主体として描かれているのかというと、
上の句に答えがあるわけなんですよね。
これは、2割くらいは僕の経験みたいなものも含まれています。
僕の両親は厳格な人たちで、物事をはっきり言えない人間を忌み嫌うところがありました。
その頃よく言われたのが、「イヤなことはイヤってはっきり言いなさい」という言葉でした。
ものすごく高圧的だし、暴力的ですよね。
言えるわけないじゃん、と。
言えない環境と雰囲気を作ってるのは誰なんですか、と。
もちろん、当時の僕はそんなことも口にできないわけです。
そういうふうに育てられた人間がどうなるのか。
僕はフロイト由来のトラウマ論を妄信する立場ではないので、その答えがたった一つの人間像に収斂されるとは思いません。
けれど、花を上手に育てられなかったりするのかな、って。
直感的にそう思ったんですよね。
それで枯れてしまった花を見たときに、幼いころ親にかけられた言葉が頭をよぎったりするのかな、って。
こうして着想の経緯をまとめると、いかにも頭を捻ってつくった歌みたいに思われそうですが、どちらかといえば、パッと思いついた歌でした。
手応えのある歌は、だいたい、31音がそのまま降ってくる感じです。
それを理論に落とし込んで直そうとしても、直すところがない。
最初から無駄がなく、コスパが良いので。
コスパが良い歌を作れると、言葉と言葉の隙間から、ものすごく豊かな物語が立ち上がってくるのを実感します。
さっき話した「買われて、枯れて」もこの「、」に「私」の生活感みたいなものが香ってくる感じがしませんか?
本来であれば、こういうレベルの歌を三首並べて堂々の優勝を飾りたいのですが、そううまくいかないのが、いまの自分の実力ということですね。
今回は順位を3位まで落としてしまったので、挽回を図りたいところです。
次回も実りある歌会になりますように。