ASD者が子供っぽいと言われるのはなぜか?
よく巷では、発達障害を抱えている人は“子供っぽい”と言われている気がします。
当事者として思うことは、「確かにそれはあるな。」と感じています。
そのエピソードをこれまでの経験と見聞から以下にまとめてみました。
・気遣い、配慮ができない。
・常識的なことを知らなすぎる。
・正直すぎて、本音と建て前を理解していない。
・すぐに騙される。騙されやすい。
・なんでも言葉にする。ピントがずれたおかしな質問をする。
・見た目が若い。
これらをまとめると、見た目が若い以外は「社会的コミュニケーション障害」で概ね括れるかと思います。
ピントがずれた質問は、全体像をつかむのが苦手で、枝葉に囚われているか(弱い中枢性統合)、衝動的に自分の興味関心を優先させているなどが考えられます。
見た目が若いのはメリットにも思えますが(笑)
大人になって言われる「子供っぽい。」はあまり良い意味ではないように思えますが、読者の皆様はどう思われるでしょうか。実際に僕もこれは結構言われてきました^^;
このASD者が年齢のわりに、なぜ子供っぽく見えるのかを僕なりに考察してみました。
まず思いついたのが「自他境界の不明瞭さ」です。アドラーの言葉を借りると「“課題の分離”が十分にできていない」状態かと思います。
これは、相手の都合や文脈を考慮せずに自分の価値観や意思を無理やり押し付ける。逆に相手の感情や意見に合わせ過ぎて、自己主張ができなくなる。この両方があるかと考えました。
自他境界の不明瞭さは、経験や行動の振り返りが不十分であること、自己洞察が浅いこと、抽象的な思考が苦手なことなどが原因で、自我の確立が遅れてしまうことが要因かなと考えられます。
仮にそうであれば、ASD者は自己像認知が苦手で自我が育ちにくく、そのため人格の成熟が遅れ、年齢のわりに行動が幼く見える要素があるのかと思いました。
ASD者の自己像認知の苦手さについて、岡田 尊司先生の「発達障害と呼ばないで 」に書かれていた、次の一文も印象に残りました。
相手の気持ちを理解する能力の弱い人では、自分を顧みる能力も低い傾向がみられる。両者は結びついた能力であり、リフレクティブ・ファンクション(reflective function)と呼ばれる。
僕としては、ASDの中核症状である
社会的コミュニケーション障害=自己像認知の弱さ
なのだなと思わざる得ない一文でした。
ASD者が成熟した大人を目指すとなると、このリフレクティブ・ファンクションをどう育んでいくかも鍵になるのかなと思います。
その一方で、当事者として「大人っぽく見られなければいけないのか」という疑問もあり、その動機は自分の承認欲求を満たしたいだけなのかもしれません。
無理に大人っぽさを目指すよりも、自分の興味関心とストレングスをどのように環境に適合させ、結果的に他者貢献につながるかを考える方が、僕としては建設的なのかなと思いますし、自分らしく生きる方策なのではと思います。
最後まで読んで頂きありがとうございます。またお会いしましょう(^^)/