自分が“そこ”にいる意味を失っていた日々
作業療法士を目指す前、自分は工場勤務をしていました。そこでは存在を否定されており、辞める1ヶ月前あたりは四面楚歌で居場所を完全に失っていました。
途中で作業療法士を目指すと決意してから、仕事への意欲がどんどん薄れていったので、全く共同体にコミットしていない雰囲気がダダ漏れだったのもあると思います。
過去にも工場勤務時代の記事を書きましたが、実は何ヶ所か勤めたことがあり、中には良くしてくれた就労先もありました。その人たちとは今でも親しくさせてもらっています。
過去記事のエピソードに出てきた工場は完全にアウェー状態で、読み返すといじめられていたということを認めざる得ないです。
今思うと、辞める前の1ヶ月間はとてつもなく時間が長く感じたことを痛烈に覚えています。周囲の冷たい眼差しと遠回しな人格否定、課された作業は、ただお金を稼ぐために時間を消耗する作業といった、まさに「自分が“そこ”にいる意味を失っていた日々」でした。
作業も全く面白くなく、速さと正確性と耐久性のみが求められるワンパターンの仕事でした。さらに自分はライン工だったので、ラインオペレータの意図に合わせて動くことを強く求められました。当時は自分がASDだとは思っていなかったのですが、都度段取り者の意図を推察しながら作業に従事するのがとても辛く、「この仕事はいつまで続けなければならないんだろう」と前途に望みを失っている気持ちで仕事に従事していました。
ここで、なぜコミュニケーションを取らなかったかと言うと、段取り者と自分の関係性が絶望的に悪く、コミュニケーションを取りたくないという意思が明白だったからです。薬液をかけられたり舌打ちなどもよくされました。
この先も合わない作業を続けて、自分は仕事をする意味、生きている意味、ただ食い扶持を稼ぐためだけの、滅茶苦茶つまらなく疲れるだけの人生なのだろうかと思ってしまい、将来をとても悲観していました。
今考えても人間関係が非常に悪く、仕事も全く合わないという詰みの状態だったと言えます。
偶然、作業療法士という情報を提供してくれた親には今でも感謝しています。
あのまま工場勤務を続けていたら、まさに「死んだ魚の目」をして生きていたと言っても過言ではありません。生きる屍という言葉がピッタリです。
そういう意味では、自分の巡り合わせや運の良さを信じられる側面があります。
「もう、あの頃には二度と戻りたくない。」
作業療法士の仕事に従事しながら、ふとあの時の工場で働いていた辛い時期を思い出すことがあります。
基本的に人は仕事に人生の大半の時間を捧げるので、この作業が自分自身のQOLに占める割合は特に大きいものです。自分にとって意味が感じられる仕事の大切さを、この経験からも痛切に感じます。
「自分が“そこ”にいる意味」は第三者から見えないものですが、その共同体にコミットするという側面でも非常に重要だと思うこの頃です。
ジリジリと絶望の淵に向かっている時に「自分の努力は全て報われない」という学習性無力感に蝕まれていましたが、環境を変える勇気がほんの少しでも残っていてよかったです。
かろうじて首の皮が一枚繋がったなと改めて思いますし、人間関係な良好な環境に感謝しています。
もし、サポートしたいと思っても、そのお金はここではない他の何かに使ってください。僕の方はサポートがなくともそれなりに生活できておりますので。