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もしくは自分を殺したい、自殺願望
心のまま、感情、とめどなく書いていきます。
中学の時、キリスト教にかぶれるようなことがありました。私は、祖母の代から天理教です。
他の宗教で天理教を邪教と呼ぶ人もいるような。
ですが、私は心底、そして、傾倒するように。今は、天理教の信者です。
中学の時、キリスト教の英語教室が近くの教会で行われ、その教室に誘ってくれた友人と2人で行ってました。
他に2人の同級生も男女1人づつ通っていました。
キリスト教を辞書で調べ、キリストは十字架に、、、そこから、私の妄想と思い込みで。自己犠牲こそ、至高。という、極端に。そして私の中では崇高な思想のようなものを中学生にして妄想しました。私はそれを実行に移しました。
私は、イジメられていたのですが。
私を疎ましく思う人間、同級生に殴っていいよ。と伝えました。
私の気が触れた始まりでした。頭がおかしかった。今ではそう思います。
程度が低く、幼い同級生は躊躇なく殴ってきました。
次第にクラスで仲間と呼べる人間はいなくなり。孤立しました。
不登校になって。しばらくすると、私を助けてくれなかった人たちが、手紙で優しくしてくれました。
そもそも、私発信でイジメてくれ。殴ってくれ。と、言ったきっかけがあるのに。私はそのことをきちんと。忘れるに至りました。
その後、勘違いを起こした私は、逆恨みをしやすい性格になります。
親のせい、同級生のせい。殴ったやつのせい。
その、どこからが私が、殴ってくれと言った線引か、それとも、そもそもイジメを受けていた逆恨みか。そもそもで考えれば、場合によってはもともとイジメられやすい私がいた事。
そのイジメがエスカレートするきっかけは、私が殴ってくれと言ったこと。言語の弱い、成長段階の自分は論理的思考もなく。
今もあまり論理的思考はありませんが、中学生の頃は、小学生の頃の自分と差はなく。
ただ、逆恨みを募らせることになります。
今気づいたことがあります。
フツーに考えれば、殴れと言ったら殴られる。じゃあそんなこと言う必要あっただろうか。
ただ、死にたくなりました。
そして、タイトル回収になります。
逆恨みから、人を恨む心が育てられ、自分が心底嫌いになり。
生きること、幸せになる予感には、抗ってきました。パートナーを不幸せにする自信がありました。
少しづつ、改善すればいいのですが、書くのも疲れました。根気も、理由について、タイトルについて考えるのも馬鹿らしく思えてきました。
あとがき
私の弟が鬱で、彼を昔傷つけて、深く傷つけて。
だから、彼が。想像も。したくありませんが、いなくなったら。
今この状態も、結構堪えます。弟とは、話せません。
彼が、私を拒否しています。
私は、もっと反省すべきだと思います。
生きて、反省すべきなんです。
こんな幼い文章ですみません、形式にとらわれて書くのが億劫で。疲れました。