見えない湖を歩く〜曼荼羅の中へ、非暴力の学びを求めて
なぜ、他人から意味がない(無駄だ)と言われることや、自分でも説明できないことに夢中(馬鹿)になれるんだろう。理由も分からないままに。
でも、ある日私は、自分が良き出会いの連鎖の只中にいることに気づいた。
あの頃、組織化する動きから離れ孤立していた私は、数人の子どもたちと一緒に霞ヶ浦を歩き始めた。何のために歩くのか、意味も分からずに。しかし、無縁になって歩く私の先に待っていたのは、思いもよらない人や物や出来事との出会いだった。
広大な湖は、人や物が属性を離れ自由に出会い繋がり合う場(アジール)となって、出現した。その時、良き出会いの連鎖(アサザプロジェクト)が始まった。
連鎖の30年を、空海と対話しながら振り返った。
何も変えられない、何も変わらない。
今年、アサザプロジェクトは30周年を迎えた。節目といったことには、あまり頓着しない方だが、最近このプロジェクトが始まった頃を思い出すことが多い。
それは、懐古気分というより、危機感の再来といった方がいい。
深刻さを増すばかりの環境問題や国際紛争、世界を覆う分断や対立、民主主義や平和維持体制の危機など、これまで人類を支えてきた基盤といえるものの崩壊を目の当たりにする毎日。
危機感が日に日に増し、問題の大きさや複雑さが、自分の能力を凌駕してしまい、何をしたら良いのかさえ思い付かない。このまま無力感に覆われてしまうのではないかと不安になる。
そういえば、アサザプロジェクトを始めた頃も、私は同じような感覚に陥っていた。霞ヶ浦はもう何をやっても良くはならない、この状況を変えることなどできないといった閉塞感に、社会全体が覆われていたのを思い出す。
30年経って、振り出しに戻った気持ちで、同じ問いと向き合い始めている。
霞ヶ浦から突きつけられた限界
霞ヶ浦と向き合い本気で取り組み始めたとき、私は、霞ヶ浦の大きさに改めて圧倒された。流域はさらに大きい。流域面積は湖面積の10倍もある。湖と流域の中では、複雑な要素が絡み合い、その実体は捉えようがない。
霞ヶ浦を対象とした行政など従来からの取り組みの限界は明らかだった。もちろん、その限界は、私にも突きつけられていた。
当時私の周りには、数人の大人と野山で一緒に遊んでいた子ども達がいたくらいだったから、行政などが大規模に行なってきた取り組みの限界を越えるにはどうしたらいいのかなどと、問題提起すること自体、身の程知らずと言われても当然だった。
無縁になることで得た自由
同じ頃、茨城県が霞ヶ浦に関わる環境団体を集めて、県知事を顧問とする新たな組織を作ろうと動いていた。私たちを除くほとんどの団体は、行政主導のネットワークに加入していった。
そのような動きの中、既存の枠組みの限界を超えた取り組みを模索していた私たちは、世間の流れから外れ、孤立していった。
しかし、今から思えば、あのとき孤立したことは良かった。環境団体のネットワークから外れ孤立したことで、私たちは既存の組織や枠組みから解き放たれ(無縁になって)、自由に動き回ることができるようになったからだ。
見えない霞ヶ浦と向き合うために歩き始めた。
そのような状況の中でまず始めたのが、霞ヶ浦の湖岸を徒歩で全周することだった。他に思いつくことが無かったから、歩いた。
霞ヶ浦の畔に立ち見渡して見ても、霞ヶ浦全体を見ることはできない。実際、霞ヶ浦にはいくつもの入江があり複雑な形をしているから、どこか一点から眺めても全体は見渡すことはできない。
だから、湖畔を歩き始めた。
見えない霞ヶ浦には、権力による支配が及ばない。
私は、はじめて霞ヶ浦に接した時から、その景観に不思議な魅力を感じ続けてきた。湖面の彼方に見える水平線と、それに接する地平線の微かな線。
歴史学者の網野善彦は、その著書「無縁・公界・楽 日本中世の自由と平和」の中で、霞ヶ浦の特異性を次のよう指摘した。
「たとえば、あの広大な霞ヶ浦・北浦をすべての漁民の入会の場とする議定書をもつ、沿岸漁村の自治的な連合組織、霞ヶ浦四十八津、北浦四十四津の動きにも、私はこれらの場を支えてきたものと、同質の力を感じとる。入会の海を囲い込もうとする水戸藩の権力に対し、この組織は裏切り者は打ち殺すという厳しい姿勢をもって、五十年近くも抵抗し続けた。」
権力者にとって、見えない湖を支配することには困難であったに違いない。霞ヶ浦が見えないことが、網野が言う無縁や公界としての場(アジール)を可能としたのではないか。だから、湖の中を動く人たち(漁民)による広大な入会の場(住民自治)が実現したのだと思う。
霞ヶ浦は、その中に入り、動かなければ見えない。
湖の大きさや広がり、そして特異性を実感するためには、自分からその中に入るしかない。そんな思いに駆られて、夢中になって私は湖岸を歩いた。
霞ヶ浦に関する情報や知識をいくら寄せ集めたところで、湖全体を再構成して理解することには限界がある。霞ヶ浦を丸ごと理解しようと思うなら、その空間的な広がりと流れる時間の中に入っていく他ない。
空海が日本に伝えた密教には、入我我入という言葉がある。入我我入と言ったら大袈裟すぎるが、私が霞ヶ浦に入り、霞ヶ浦が私の中に入るといった心境を求めて、私は湖岸を歩き続けた。
霞ヶ浦は絶えず再生しようとしている。
休日毎に、子ども達を数人連れて、朝から夕方まで一日何十キロメートルも湖岸を歩いて周った。霞ヶ浦湖岸は、当時すでに大半がコンクリート護岸化されて殺風景なっていた。それでも、子ども達は前に進むたびに、次々と生き物を見つけていった。子どもたちのお陰で、この先に待っている発見への期待を抱きながら、足の痛みを忘れて歩き続けることができた。
この調査で、私の霞ヶ浦を見る目は大きく変わった。環境が悪化し「死の湖」とまで言われた霞ヶ浦だったが、それでも霞ヶ浦は生きているということ、再生の芽が至る所にあると実感した。
そのひとつが、湖面でひときわ輝きを放っていた黄色い花の絨毯、アサザの群落だった。アサザは、湖そのものに再生する力があることを、私に教えてくれた。
湖の中に潜在する再生力を阻害する人間による要因を除いていけば、霞ヶ浦は再生するのだと、私は確信した。
そして「造るにあらず、除くにあり」という田中正造の言葉を思い出した。
変わることで見えてきた景色
霞ヶ浦を無心に歩き続ける中で、私は次第に変わっていった。
自分が変わることで見える新たな景色があることに気付いた。
その気付きは、それまで私を覆っていた閉塞感を一掃した。
同時に、私は自分が抱えていた限界の背後にあったものに気づいた。
現状をどのようにして変えればいいのか、その為にどのような仕組みを作ればいいのか、どのような技術を使えばいいのか、それまでの私は、「変える」という発想に囚われていた。
そのとき霞ヶ浦は、「変える」という発想から私を解放してくれた。
これを機に、私の中から、自らが変わり、新しい景色を見たいという想いが湧き上がってきた。自分が変わることで、視界が開け、出会いや気付きを得ることができる。そのような衝動に突き動かされ歩いた。
新しい言葉が次々と到来する。
不思議なことに、この頃から、自分の中から新しい言葉が次々と浮かび上がって来るようになった。
たとえば、「自分を場として開く」これもその頃浮かんできた言葉のひとつだ。
広大な湖の空間の中を歩いていた時に、この言葉は到来した。
入我我入というように、あの大きな霞ヶ浦が私に入ってきたとしたら、自分を場として開かないわけにはいかない。
中心の無いネットワーク、壊すのではなく溶かす、壁を膜に変える、人格を場として機能させる、構築から連鎖へ、対話的分散、人間は考えるネットワーク、ありがとうの繋がりなどなど、今日に至るまで、ふと新しい言葉が浮かんで来ること(出来事)が、継続している。
このような言葉の到来は、私が自分を場として開き、動き続けている限り続くと思う。同じことは、誰にでも場として開くことができれば、起きると思う。
空海は、魂の中で起きる言葉に表せない出来事や働き(内なる悟り)を密(密教における秘密)といっている。自分の場合、もちろん悟りとは程遠いが、自分が変わることで開けていく世界(密)に呼応するかのように、新しい言葉が次々と到来してくるようになった。
私は、新しい言葉が到来すると、そのまま躊躇なく発信していった。
自分を開くことで現れるアジール・無縁になって出会う
新しい言葉が浮かんで来るのと呼応するように、それまで想定していなかった人や物や土地との出会いが次々と起き始めた。
入我我入。霞ヶ浦の広大な風景の中に入り、自分を開くことで、無縁の空間(アジール)としての霞ヶ浦と自分が溶け合い、人やものが属性を離れて自由につながり合う場が、自分の中に生じたのだと思う。
新しい言葉の到来の後には、必ず人やものとの新たな出会いが起り、新しい現実が生まれる。この30年間は、まさに、そのような良き出会いの連鎖(神秘の連続)であった。
空海と出会い曼荼羅に入る。
プロジェクトを始めた頃、私は曼荼羅に惹かれるようになった。曼荼羅は、空海によって7世紀に日本へ伝えられた。曼荼羅は、密教とりわけ空海の思想を理解する上で、重要な意味を持つという。
曼荼羅の中心に描かれているのは大日如来。大日如来は、図全体に数多く描かれた菩薩や眷属などを統制したり制御したりする存在ではない。大日如来は、遍く存在するもの、全てを結びつけるもの(法身)として描かれている。この世に存在する全てのものは大日如来を宿している(如来蔵)という密教の教えが描かれている。
空海は、人々(衆生)の中に曼荼羅はあり、人々は曼荼羅の中にあると言っている。
私は曼荼羅を眺める機会は何度もあったが、空海の思想を深く知ろうとはしなかった。彼の思想に興味はあったのだが、彼の著作は難解と聞いていた。そのため、尻込みをしていたのだ。
でも、後悔はしていない。以前から、彼の思想とは出会っていたことに、最近気づいたからだ。
学び=良き出会いの連鎖の法則に従って、スピノザから空海へ
最近になって、現代語訳された空海の著書があることに気付き、遅ればせながら、読み始めた。それには、あるきっかけがあった。
そのきっかけを私に作ってくれたのは、17世紀オランダの哲学者スピノザだった。最近馬を飼い始めた私は、なぜかスピノザのエチカを読みたくなり、何度も読み直していた。そして、ある日、突然空海の思想を学んでみたいと思うようになった。どうして、そうなったのかは、理由は分からない。でも、スピノザが、わたしを空海に誘ったことは間違いない。
私は、10代の頃から「学び=良き出会いの連鎖」という信念に従って生きてきたので、理由はともかく、この時も空海へと飛んだ。
空海の思想を学び始めてから、飛んだ理由は少しずつ分かってきたが、まだ具体的に述べることはできない。
ただ、もうひとつ気づいたことがある。このプロジェクトを始めた頃、私は曼荼羅を通してすでに空海と出会っていたということだ。
あの頃、次々と私の中から浮かんできた言葉の数々が、空海の思想と不思議なほど重なってくるからだ。
良き出会いの連鎖は、私の中で起きる出来事を通して、直線的な時間概念とは全く異なる、別の時間概念を与えてくれる。
「空海の般若心経秘鍵の後書(上表文)には不思議な文句が記されています。
自分は、かつて霊鷲山の釈尊の説法の場所にいた。まのあたりに、この深遠な教えを聞き、その意味を知り得た。だから、この秘鍵を書くことができたと。」
宮坂宥洪 真釈般若心経
空海は、良き出会いの連鎖の中にいたのだと思う。
個々の人格を場としたネットワーク
空海は、大日如来の世界そのものを表した曼荼羅は、ひとりひとりの中にも宿っているという。それを彼は、帝釈天の宮殿を飾る網の目の一つ一つに付けられた透明の丸い宝石に、周りの宝石が映り、また映りと、幾重にも無限に映り合う光景に喩えられている。
彼は、それを「重重帝網なるを即身と名づく」という言葉で表した。
個々の人格が出会いの場として機能するネットワークや「人間は考える一本の葦ではなく、考える葦原である」といった、当時私の中に浮かんできた言葉とも重なって来る。
密教では、教えとそれを体現する人格とは、かけ離れたものとは考えない。個々の人格は、まさに教え(法)が映し出される場であるからだ。それら無数の場が互いに映り合うネットワーク、それが曼荼羅だという。
それ仏法遥かにあらず、心中にして即ち近し。 空海 般若心経秘鍵
アサザプロジェクトでいつもイメージしてきた「分散した多様な個によるネットワーク」も、ひとつの曼荼羅だと思っている。
人の心と環境はひとつ
夫れ境(環境)は心に随って変ず。心垢(けが)るるときは境濁る。
心は境を逐って移る。
境閑かなるときは心朗らかなり。
心境冥会して、
道徳玄に存す。 空海 性霊集より
環境は、心に従って変化する。心が汚れれば環境も濁る。環境が乱れず穏やかであれば、心も健康で明るい。環境は自分の心に従って変わり、心は環境によって変わる。心と環境はひとつであるということに、人が善く生きる為の奥義がある。
自分の心のあり方が周りの環境の変化として現れるとしたら、自分が変わらなければ、環境も変わらない。
別の言い方をすれば、自らが変わるということをしないで、環境を自分の外に対象化し、変えるという発想のままでいたら、いつまで経っても心境冥会(境閑かなるときは心朗らかなり)には至らないということだ。
湖畔を無心に歩いていた頃、私の心の中で起きた出来事と、この空海の言葉が重なってくる。
変えるという発想から、変わるという発想への転換が、あの時の私の中で起きていた理由を、この言葉と出会ったことで理解できるようになった。
自分たちが変わらなければ、霞ヶ浦の再生(霞ヶ浦閑かなるときは心朗らかなり)はならない。
変えるというのは自力だが、変わるというのは自分の力だけではできない。自分を支える数多の繋がりに助け(他力)を求めなければできない。それには、私が自然や人の繋がりの中に入り、それらに支えられていることを感じながら私が変わることが必要だ。
それによって初めて、霞ヶ浦も自らの再生力によって変わる。そのような閃きが、アサザプロジェクトを発想するきっかけになっていたことを、空海の言葉と出会い思い出した。
水の力によって変わる〜水と再生の文化
「心垢るるときは境濁る」
空海のこの言葉は、私に湖や川の汚濁について改めて考える機会を与えてくれた。
水は古代から、命や再生の象徴として扱われてきた。正月の若水取りや、奈良の東大寺で行われるお水取り、神道の禊ぎ、修験道の滝行など、人々は古代から水に命の再生力を感じ、その力に願いを託してきた。密教の最も重要な儀式である灌頂にも、水は欠かせない存在だ。
これらの儀式に共通しているのは、水の力による生まれ変わり(命の再生)だ。
人々は、水が命を再生する力を信じ、水と生命を一体のものとして捉え続けてきたのだ。
古代の人々にとって、水は単なる物質としてではなく、精神的な存在であった。人々は、水によって、生まれ変わろうとした。
その水を、現在人は使い捨て、何の躊躇もなく汚し、川や海や湖を汚濁し、そこに暮らす生き物たちを苦しめ、あまたの命を脅かしている。
再生力(変わる力)を本当に失っているのは、水や環境ではなく、それらを汚し続けている人間ではないのか。
今こそこの現実を、より深く、深刻に、自分自身の中で受け止める必要があるのではないか。そう、空海に言われているようだ。
行政や研究者と限界を共有してはいけない。
霞ヶ浦や取り巻く社会をただ対象化し、どのように、どのような方法で変えればいいのかといった発想に囚われ続けている限り、本当の意味で展望は開けてはこない。研究者や行政関係者等と同じ枠組みの中で、彼らと限界を共有している限り、本当の意味での展望は見出せないのではないか。
既存の枠組み(権威)に縛られない、もっと自由な発想が、私たちの社会には必要だと強く思うようになった。
そのような思いの中から、中心に組織の無いネットワークや対話的分散、自然のネットワークに重なる人的社会的ネットワークといった発想が生まれてきた。
社会が変わらなければ、霞ヶ浦は再生しない。
未来に向けて霞ヶ浦を再生し共存していくために、自分たち(社会)が変わらなければならない。そのような転換を迫られる事態が、私が湖畔を歩いていたころ起きていた。
当時は、霞ヶ浦のコンクリート護岸工事(霞ヶ浦開発)が終わり、水位管理(ダムてしての運用)が目前に迫っていた。また、1973年から海と湖を分断し続けている逆水門の運用が一切の見直しもなく、その弊害が深刻化していた。霞ヶ浦の自然は、危機的状況に直面していた。
一方、霞ヶ浦流域に目を移すと、水源を涵養する森林の荒廃や減少が進み、水源地の谷津田では耕作放棄地の拡大が止まらない状況にあった。
霞ヶ浦をダムに変え、水源の谷津田を耕作放棄地に変えてしまったのは、もちろん人間だ。
だから、人間が変わらない限り、霞ヶ浦も変わらない(再生力を取り戻せない)。
世界を覆う悪循環
夫れ境(環境)は心に随って変ず。心垢るるときは境濁る。この言葉の通り、霞ヶ浦は急激に汚濁されていった。
アオコが大発生し、酸欠によって魚の大量死も起きた。しかし、研究者や行政関係者は、根本的な原因(社会のあり方)を本気で見直すこと(根本治癒)を忘れ、ただ現状を改善する(変える)ために必要な方法(対症療法)を考えることに終始してきた。一般市民も含め社会全体も、変える方法や仕組みにばかり目が行き、自らが変わるという発想から離れていた。
自分たちの思い通りに使おうと、湖を変えてしまい、後から問題が生じると、今度はその状況を変えようとまた何かする。自らが変わることを忘却して、変えることを繰り返し、本質的な解決からは遠退くばかり。
これは、地球環境問題や国際紛争の深刻化を食い止めることができずにいる人類全体が陥っている状況も同じではないか。
アサザが人々と湖を結ぶ
アサザプロジェクトは、変えるという発想の堂々巡りから脱却し、変わることで変わるという方向に、社会を向かわせようとする一つの実験だと自負している。
最初に始めたアサザの里親や湖への水草の植え付けもその一環だった。人々が湖に自生する水草アサザを身近で栽培することで、湖に生きるアサザの生活史を学び、生き物と湖の環境との繋がりを理解し、生物の目になって湖を見ることで、湖を変えてきた人間が変わらなければならないことに気づいてもらおうと思った。
そして何よりも、湖が再生する力を阻害する要因を人間が作っていることに気づいてほしかった。
実際に、多くの人たちが、霞ヶ浦に入り湖水に浸りながら種子から育てたアサザを植え付け、霞ヶ浦の今を体感した。
ものから広がるネットワーク
アサザは、多くの人たちに変わる機会を与えてくれた。その中には、子ども達や市民、漁業者、林業者など様々な人たちがいたが、霞ヶ浦のダム化を進めていた建設省の関係者もいた。アサザは、アジールとしての霞ヶ浦を象徴する存在になった。アサザの植え付けと同時に、流域の森林の手入れを行い、その時発生する間伐材や粗朶を湖に運び自然再生に活用する取り組みや、流域の小学校で行う出前授業も始まった。このようにして、アサザは様々な人々や組織を結び付けていった。
私は、ネットワークが具体的なものから広がっていくことを実感した。
このようにして、湖と人と森を結ぶアサザプロジェクトは社会に広く展開していった。(これまでに延べ34万人がプロジェクトに参加した。)
「ものを開き事を始める」という古代の中国の故事があるが、まさにそのような展開になった。
建設省も変わった。
プロジェクトが始まって5年目に大きな転機が訪れた。湖を管理していた建設省が変わったのだ。これまで河川行政の中心にあった治水利水に、新たに環境を加えるという方針が、このとき示された。
霞ヶ浦でも、5年前に建設省が始めた湖の水位操作(本格ダム運用)によって、多くの人々が再生に取り組んできたアサザなどの植生が激減したことを受けて、建設省が水位操作を中断することを決定した。
(中断後に、アサザをはじめ湖内では植生の再生が見られたが、2003年頃から建設省(現国交省)が水位操作を再開し始め2006年には元の状態に戻し、再びアサザなどの植生帯は激減した。水位操作は、霞ヶ浦の再生する力を阻害する最大の要因である。アサザ基金は見直しを求め続けている)
変えるという発想の延長にある自然再生事業が作る悪循環
2000年建設省は水位操作の中断と同時に、減少してしまった湖の植生帯を再生するための公共事業を立ち上げた。この事業は、今日各地で施行されている自然再生法に基づく事業の先駆けとなった。
霞ヶ浦で行われた大規模な自然再生事業では、従来の公共事業の延長線上ではあったが、建設省が変わった側面が多々あった。
例えば、計画立案段階から私たちNPOが参加し、計画の中にアサザプロジェクトが培ってきたネットワークや農林水産業などとの協働事業や子ども達の学習を盛り込むことができた。本格的な公共事業に、縦割りを越えて市民による取り組みやアイデアが組み込まれた今でも稀有な事例だといえるだろう。
私たちは、公共事業が多くの問題や課題を抱えていたことは十分に承知していたが、市民との協働を通して変わる可能性を信じて、この事業に関わった。
しかし、結果としては改めて公共事業の課題と限界を突きつけられる事になった。自然を再生すると言いながら従来の単年度予算により短期間で実施され、十分な時間をかけて取り組むことができなかったことや、事業が終了した後の継続的な管理やメンテナンスに必要な予算が確保されないことなど、従来の行政の枠組みの中で自然再生を行うことの限界を思い知らされることになった。
概念で捉えられた霞ヶ浦
私たちは、この経験を通して、批判をしながらもまだ行政と限界(縦割り)を共有していたことに気づいた。それは、広大な湖面の広がりだけを霞ヶ浦と捉え、流域にあまねく分布する水源地などの水系全体に霞ヶ浦(胎蔵する湖)があることを忘れていたということだ。今振り返れば、霞ヶ浦を曼荼羅のように捉えることができていなかったのだと思う。
霞ヶ浦は、湖面の10倍の面積を持つ流域の最下流に位置する湖だ。流域を流れる水は、人々の営みの影響を受けて変化し、全てが霞ヶ浦に集まってくる。
霞ヶ浦で起きる環境問題の原因の大半は、湖の周囲に広がる流域にあり、それらの原因によって引き起こされた結果が湖で顕在化する。当たり前といえば、当たり前である。
概念で分類された霞ヶ浦(湖面の広がり=霞ヶ浦=国交省管轄)を捉えるのではなく、霞ヶ浦を大きな繋がりとして捉え、その繋がりの中に入り、自ら変わることがない限り、実体としての霞ヶ浦と向き合うことはできないのではないか。
縦割り化した社会の限界を行政や研究者等と共有している限り、湖での自然再生は対症療法の域を出ない。彼らは、それぞれ自分の立場からしか、霞ヶ浦を見ていないのだから当然だ。
これが、私たちが得た教訓だ。この体験が、私に変えるという発想から変わるという発想への転換を、より強く促すことになった。
思い通りに変えることができるという幻想で動く社会への警告
湖が自ら再生しようとする自然の営み(再生力)を妨げているのは、紛れも無く人間だ。私は湖を歩きながら、子ども達が次々と発見する再生の芽ともいえる小さな命の営みに触れるたびに、その思いをより強くしていった。
足尾鉱毒事件に取り組んだ田中正造は、問題解決に向けて「造るにあらず除くにあり」という言葉を遺している。
私は、後で述べる自然再生推進法案を審議した衆院に参考人として招かれた時に、この言葉を引用した。
田中正造も、外からものを見ず、内に入り自らを変わることができた人だった。彼は、強制廃村になった谷中村に入り、非暴力の抵抗を続けていた人々と暮らし、指導をしようとした自分のそれまでの在り方に限界を感じ、「聞かせると聞くとの違い」に気づいた。
心を開き、村人の話を真摯に聞くことで、彼は変わることができた。彼は、その体験を谷中学と名づけた。
最晩年70歳をこえた田中正造は、ひとり渡瀬川を歩き続け、ある日の日記に次のような言葉を記した。
「今日も種々の新しい感覚を得た」
湖を変えるという発想では、いつまで経っても、湖の至る所に眠っている再生の種子を芽吹かせることはできない。私たちが、変わらなければ、数多の種子は芽吹かない。(ちなみに、種子は密教で可能力を意味する)
霞ヶ浦の再生を行う場合、除くべきものとしてまず挙げられるのは、霞ヶ浦開発事業による不自然な水位操作や湖と海を隔てる逆水門の閉鎖である(海からの上潮に乗って湖に入る生物の移動を阻止している)。
変えることが作る悪循環
霞ヶ浦では水位操作の再開(2003年)以降、波浪が大きくなり湖岸の侵食が激しくなった。すると、それを口実に国交省が波浪対策と銘打って沖合に石を積み上げる消波堤を造成し始めた。逆水門の閉鎖による漁業や生態系への影響が顕在化すると、効果が一部の魚種に限定された魚道の造成を行なった。
湖を変えたことで起きた問題を、また変えることで解決しようとする。自分たちが変わることはさて置いて、何でも技術(変える方法)で解決しようとする。何かを変えるたびにまた新たな問題が生じ、さらに変えようとする。
その繰り返し(悪循環)に陥っている。行政関係者も技術者も科学者も、変えるという発想(技術や手法)に支配され、そこから抜け出すことができない。これは、霞ヶ浦のみならず、現代社会が陥っている悪循環だ。
実は、苦のサンスクリット語の原語「ドゥンガ」は、「思いのままにならないこと」、すなわち「不如意」が原意です。 真釈般若心経 宮坂祐洪
同じ事は、今日の地球環境問題の解決に向けた取り組み、とりわけ技術革新=イノベーションによって問題解決しようという流れについても言えるだろう。イノベーションが本当に意味するところは、ドラッカーが言うように自分のあり方を変える(自ら変わる)ということではないのか。
変わるためのプロジェクトを、変えるための制度に読み替えてしまう俗力
2003年には、アサザプロジェクトをモデルにしたという法律(自然再生推進法)が成立した。縦割りにとらわれない市民が自由な発想で動き、自生的に展開し、多様な主体が協働していた事業を、法律のモデルにすること自体がナンセンスだと思った。
ところが、アサザプロジェクトの縦割りを超えた展開を見て、これを自分たちの成果や評価に変えようと一部の研究者や官僚や政治家が、私たちの知らないところで早くから動き出していた。
私たちが法制化の動きを知ったのは、法案が国会で審議される直前になってからだった。法案作成に関わっていた官僚や国会議員が、突然事務所を訪ねて来るようになったからだ。そもそも行政主導から市民主導への転換を主張していた私は、法制化に難色を示した。
ちょうどその頃、法制化の中心になって動いていた研究者が、私に言った言葉が忘れられない。
「あなた達の取り組んできたことが国の法律のモデルになるんだから、これほど名誉なことはありません。」
「名誉?」この言葉を聞いて驚いた。この人は、これまで何のために私たちのプロジェクトに関わってきたのだろうか。この人は、私たちが目指してきたことを全く理解していないことに、この時私は気づいた。
実際、推進方成立後、霞ヶ浦では自然再生どころか、いったん凍結されていた湖の水位操作が再開され、湖の環境は悪化していった。しかし、アサザなどの植生帯が激減していくのを目にしながら、研究者は沈黙を守り続けた。
彼ら彼女らは、変わることで人々を結びつけることでかつてない広がりを見せていたプロジェクトを、形だけ真似て法律に変え、自らの成果として権威づけようとした。
俗権力は、無縁・公界・楽の場や集団を、極力狭く限定し、枠をはめ、包み込もうとしており、その圧力は、深刻な内部の矛盾を呼び起こしていた。
網野善彦 前掲書
地位や肩書きや権威を使えば何でも変えられるという幻想
縦割りの行政が管轄する自然再生事業では、自然は再生しない。むしろ、事業によって自然の一体性や連続性を損ない、さらに環境を悪化させる恐れがある。
しかし、自分の地位や肩書きや権威を使えば、何でも思い通りに変えることができると思い込んでいる研究者や官僚や政治家には、そんな懸念を抱く様子は全く感じられなかった。彼ら彼女らの欲望が、変わろうとする世の中の動きを勝手に読みかえ、変えることで起きる悪循環に社会を巻き込もうとしていた。
確かに、変える(他動詞)、つまり私が変えましたと言えなければ、地位や立場や権威を誇示することもできないし、評価の対象(名誉)としてアピールすることもできない。このような俗の力によって、社会が変わろうとする自由な動きが消され(乗っ取られ)ていく。
微かな光を広げるネットワーク
変わる(自動詞)という出来事は、ひとりひとりの内面で、自然に起きるもの(自然智)空海の言う秘密に近いものだと思う。誰も、他人からの評価を求めて変わるのではない。
たとえ一人一人の心の中で起きる小さな出来事(変わる)が放つ光は微かではあっても、空海の言う重重帝網(光のネットワーク)となって人から人へと広がっていくのではないか。分散した多様な個によるネットワークとなって。
このように考えながら、私はふと思う。誰かが変えたことで、世界が変わったなどということが、本当にあったのだろうかと。
自然再生事業という悪循環
自然再生推進法が成立すると、霞ヶ浦では国交省(建設省)が中心となって自然再生協議会を設立した。
しかし、ここでも、行政の枠組みの中で湖を再生するためにどのような方法や技術を使うかといった議論に終始し、自らが変わらなければならない課題である水位管理や逆水門の運用のあり方については、議論の対象から外されてしまった。
霞ケ浦を自分の外に置き、単なる対象として捉え、技術や理論によって操作し管理できると思い込んでいる役人や科学者や市民団体の傲慢さや愚かさを露呈するかのように、自然再生協議会による自然再生事業は、霞ヶ浦の環境に新たな問題を引き起こしていった。
悪循環を固定化する金の動き
さらに、国交省はこの自然再生事業を、従来から行なっている公共事業(石積みの消波堤の造成)に読み替えて、新たな予算獲得を図っている。
石積み消波堤は、湖の生態系を分断し、ヘドロの堆積や水質悪化、外来種の増加などの問題を引き起こすことが、先の自然再生協議会による事業でも明らかになっているにも関わらずだ。
変えることで問題が起きれば、変えることで対処し、また問題が起きれば、変えることで対処する。ヘドロや外来種の除去事業と言った具合に、それは際限なく続いていく。
その都度、新たな技術や仕組みが提案され、予算が組まれ、変えるための工事や事業が繰り返される。この悪循環の原動力が、金権政治や利権であることは想像にかたい。悪循環が生み出す金の流れが、さらなる悪循環を生み出し固定化していく構造が、社会にある。
私たちが変わらなければ、この悪循環から抜け出すことはできない。
再び湖の曼荼羅へ
曼荼羅の世界では、全体とは個を集め構成されたものではない。曼荼羅の中に描かれているひとつひとつの個には全体が凝縮されている。まさに、重重帝網が即身であると言う空海の言葉の通りだ。
衆生(人々)は曼荼羅の中にあり、ひとりひとり(衆生)の中に曼荼羅はある。
その曼荼羅の中で、人々は動き、変わっていく(大日如来の働きを示現していく)ことができる。
曼荼羅の世界では、世間でよく耳にする私は一兵卒に過ぎないとか、組織の歯車や部品でしかないなどといった考えは生じえない。
空海の思想を学ぶ中で、私は再び湖の曼荼羅の中に誘われていった。
曼荼羅では、大日如来が様々なものに姿を変え、あまねく存在する世界が描かれている。
「曼陀羅は観察者が行為者になり、その中に歩み入ったときに成立する動の宇宙である。いかにその光は乏しくても、そこに歩み入るわれわれ一人一人が大日如来の分身なのである。そのとき、自分と木、自分とネコの境界が消える。その光の知が曼荼羅を覆い尽すのである」 岩田慶治
大日如来を、霞ヶ浦に置き換えてみたらどうだろう。
まず、私たちがは、普段目にしている広大な湖面だけが霞ヶ浦ではないことに気付くだろう。霞ヶ浦に流れ込む多くの河川、それらの河川の支流、さらにそれらの支流に流れ込む千を超える谷津田、それぞれの谷津田を構成する細かな枝谷津、それらの谷に湧水を供給する地下水脈、地下水脈を潤す森や林。そして、それぞれの谷津田を囲むように広がる畑や市街地、それら全てが霞ヶ浦なのだということに気付くはずだ。
普段人々が霞ヶ浦と呼んでいる広大な湖面は、これらの霞ヶ浦全体の表れである。その湖面に、広大な流域を含む霞ヶ浦全体が映し出されている。
アジールとなって再生した水源地・谷津田
アサザプロジェクトでは、この20年流域全体に広がる水源地の再生に取り組んできた。流域全体で進む水源地・谷津田の荒廃は、湖に大きな影響を及ぼしている。
流域で起きている様々な環境悪化の結果は、霞ヶ浦に集まり目に見える形で現れる。だから、湖でいくら環境を改善しようとしても対症療法の域を出ず、限界がある。
霞ヶ浦の流域は、1000箇所を超える谷津田によって網の目のように覆われている。農業の近代化が進められる中、大規模化や機械化が困難な水源地・谷津田は、その多くが耕作放棄地になっていった。特に、湧水地として重要な谷津田の上流部での荒廃が著しい。数十年にわたり耕作放棄され、所有者でさえ自分の田んぼの位置を確認できないという例も少なくない。
谷津田の多くは、見捨てられ忘れられた土地、無縁の空間になった。
古代には、谷津(谷津田)は夜刀の神(やつのかみ)という蛇神の領域とされていた。1300年前に編纂された常陸国風土記には、新たに現れた土地の支配者が谷津の上流へと夜刀の神を追いやり占有したという記述がある。
その谷津はいま霞ヶ浦のアジールとなって、多様な人々に開かれ、湧水が流れ里山の生き物で賑わう場へと変わりつつある。
繋がっているものを繋がっているままに
空海から約400年後、親鸞は自然法爾の事という文を書いている。
自然(じねん)といふは、自はおのづからといふ
行者のはからひにあらず
然といふは、しからしむといふことばなり
しからしむといふは、行者のはからいにあらず
如来のちかひにてあるがゆゑに、法爾(あるがまま)といふ
私たちは、はからいを捨て、分別にとらわれずにをありのままに見ることで、あらゆるものがあらゆるものに繋がる可能性(良き出会いの連鎖)に気づくことができるのではないか。はからいを捨てることは、自分にこびり付いている属性を断ち切り、無縁(開らかれた場)になることでもある。
まさに、曼荼羅の中に霞ヶ浦はあり、霞ヶ浦の中に曼荼羅はある。
そして、流域で暮らす全ての生き物や人々も、それぞれに、霞ヶ浦全体が宿っている。人々がそのような曼荼羅を心の中に思い描くことができたら、そして、その中に生きているという実感を持つことができたら、変わることで変わるという動きが社会に生まれ、湖に清らかな水と生き物の賑わいが戻ってくるのではないか(心境冥会して、道徳玄に存す。)
ふたつの自由
この二つの内どちらかを選びなさいと言われたら、あなたはどちらを選ぶだろうか。
・あなたには、どのようなものも変えることができる自由を与えよう。
・あなたには、どのようなものにでも変わることができる自由を与えよう。
さて、あなたが選ぶのはどちら?
それぞれの自由を得ることができたら、あなたはその後どうなるのかを想像してみてほしい。
私は、まず、変えることができる自由を得た自分から想像してみよう。
自分の思い通りに変えることを繰り返していくうちに、私は強大な力を持つ代わりに、変わることができなくなってしまい、変化に対応する柔軟性や対話する能力を失い、変えることの悪循環に周囲の人々を巻き込みながら、破滅に向かっていく。とどのつまり、独裁者になってしまい破滅する自分の姿を、私は想像する。
誰れでも自分の尺度や価値観に基づいて変えるということを避けられない。だが、変わることができなくなった人が、変えようとするほど危険なことはない。
もう一方の変わることができる自由を得た自分を想像してみた。
変わるという事は、自分が固執していた尺度や価値観や立場から、いちど外れ、新たな繋がりを見出すことで他者を受け入れ、新しい視野を得るということで起きる。こんな風に見ることもできるのか!こんな世界もあったのか!という気づきや驚きに促され、人は自ずと動き出す。
新たなつながりの中で、他者と交流し相互作用を得ながら、新しい自分へと変わり続けていく自分の姿を想像する。
ただ、自己が構築する自己(静的アイデンティティ)に固執している限り、変わることは自己を見失う不安を、人に感じさせるものでしかない。
自分を場として開いた時に起きる出来事の連鎖を、良き出会いの連鎖=自己(私という現象・動的アイデンティティ)であることにと気づくが必要がある。
問いの共有によって人類を結ぶ可能性
私はこれまで特定の宗教を信仰したことはないが、宗教には若い時から関心を持ち続けてきた。そして、幾人かの宗教家の思想から影響も受けてきた。
今、空海の思想と出会い、あらためて宗教というものが持つ意味を考えている。
ここに、私を捉えて続けている或る問いがある。それは、宗教が人々を結びつける根源的な力とは何かという問いだ。人々を結びつける上で、全ての宗教が根を張る土壌といえるようなものはないのか。
宗派や思想の違いを乗り越えて、人々を結び付けることができる何かを、今分断や対立や紛争が続く中で、世界中の心ある人々が探し求めているのではないか。
生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終りに冥し
生を受くる我が身もまた、死の所去を悟らず。過去を顧みれば、冥冥としてその首(はじめ)を見ず。未来に臨めば、漠漠としてその尾(おわり)を尋ねず。
秘蔵宝輪 空海
空海は人々が実存と向き合い、答えの無い問い(人間の限界)を共有することで、違いを超えて深く広く結びつくことができると確信していたのではないか。この根源的な問いによって人々が結びつくことこそが、全ての宗教や哲学が根をはる土壌としてあるのではないかと、あらためて思いを深くしている。
分断が激化し、紛争や戦争が絶えない世界にあって、今こそ宗教はあらゆる宗派を超え、この根源的な問いの力を取り戻さなければならないのではないか。
問いの共有に向けて、自己を場として開くことが、全ての宗教者には求められているのではないか。
答えの共有(教義や物語)によって自らを閉ざし、問いの共有に向けて開くことができなければ、宗教は世界に分断を促し、宗派争いに終始し、世俗の闇の中へと埋没していく他ないのではないか。
水の少ないところにいる魚のように、人々が慄えているのを見て、また人々が相互に抗争しているのを見て、わたくしに恐怖が起こった。 ブッタの言葉(原始仏典スッタニパータより)
答えの共有は変える力に、問いの共有は変わる力に
世界は、至るところで答えを共有する集団同士による対立や紛争が絶えない。互いに相手をテロリストと罵り合い、報復を繰り返し傷つけ合うこと止めない。
世界を変えたいという欲求は、確かに、誰にでもある。
しかし、今人類に求められているのは、問いの共有によって繋がり合い、共に変わろうとする勇気と、より相手を知ろうとする開かれた知性(後で述べる非暴力の知性)ではないだろうか。
自分たちの思い通りに変えようとして、水質の汚濁や生物多様性の低下などの問題を引き起こしてしまった霞ヶ浦の現状に、私は、相手を対象化して自分の外に置き、思い通りに変えること(操作すること)ができると考える近代の発想の限界を見る。
学びを良き出会いの連鎖にして生きた人
空海ほど、学びを良き出会いの連鎖として生きた人はいないと思う。まったくの無名の僧に過ぎなかった空海が幸運にも遣唐使に加わることができ、入唐後には数々の出会いに導かれるようにして、密教の系統を継ぐ第一人者恵果阿闍梨と出会い、初対面から二ヶ月間という速さで、恵果から密教の系統を受け継ぐ唯一無二の後継者として認められ、最も重要な教えを相伝されることになった。
空海と一緒に、日本の仏教界の最高権威を背負い遣唐使に加わっていた最澄には、このような出来事は起きなかった。彼は、肩書きや経歴や権威によって敷かれたレールの上を進むしか無かったから、出会いの機会は予め準備され限定されていたに違いない。
帰国後、最澄は密教の教えの真髄を空海に求めることになった。
不思議に思うかもしれないが、当時空海が無名であったこと。そのことが、彼に良き出会いの連鎖が起きた最も大きな要因だったと、私は確信している。
自分を場として開くことが出来なければ、良き出会いの連鎖は起きない。肩書きや経歴や権威を前面に出す程、その人の世界が閉じられたものとなり、出会いの機会も限定される。たとえ、本人が選択肢を増やすことが出来たと思っても、それは、ひとつの価値体系の中での想定される、その範囲内での出来事に過ぎないからだ。
空海の生涯を支えた自然体験
空海に、奇跡とも言えるような出会いの連鎖が起きた背景のひとつに、私は空海の子どもの頃からの自然体験があったと考えている。
阿国の大瀧の獄に躋り攀じ(よじ登り)、土州の室戸の崎に勤念す。
谷響きを惜しまず、明星来たり影ず。
空海 三教指帰
山鳥時に来って歌ひとたび奏す。山猿軽く跳って、伎、倫に絶えれたり、春の華、秋の菊、笑って我に向えり。暁の月、朝の風、情を洗う。
空海 性霊集
大自然の中にひとり入り、無縁となって、大きな繋がりを感じ取る。そのような自然体験を、彼は生涯たやすことがなかった。仏教界の重責を担わされ公務に追われていた時期にも、都を離れひとり山に籠ることを忘れなかったという。それは、彼が幼い時から抱いてきた自然への感性を失いたくないと思い続けていたからではないか。
生きとし生けるもの全てが、大自然の繋がりに支えられているという確信が、彼には終生あった。恵果は、空海が持っていたバックグランドをも見抜いたのだと思う。
非暴力の学び〜自ら変わるための知性へ
私は、空海の生涯とその思想がもつ広さと深さから、学び=良き出会いの連鎖が生み出す世界の深さと豊かさを感じている。
学び=良き出会いの連鎖という生き方は、知識や情報の蓄積によって構築されてきた今日の知識体系や知性のあり方に、重要な問題を提起している。
今日、知識や情報を蓄積する技術や蓄積されたデータを活用する技術の発展は、AIによる新たな社会を生み出している。AIは世界を変えると言うが、私は AIには世界の本質を変える力はないと考えている。
AIによって私たちは変えられることはあっても、それは私たちが自ら変わること(魂の出来事)ではないからだ。
ただ、AIをこの世に生んだ同じ土俵(知識体系)に立ち続ける限り、私たちはAIに負けるし、間違いなくAIによって支配されることになるだろう。
「これは対象を不動化させる思考であり、つねに自分の尺度にあわせて考える思考である。知識を得ることを考える思考である。」
エマニュエル・レヴィナス(20世紀フランスの哲学者)
知識や情報を蓄積して体系化し、社会や人に枠組みをはめ込み思い通りに変えるために学ぶ、私はそのような知性に暴力的なものを感じてきた。
変えるための知性から、変わるための知性(非暴力の学び)への転換が、今人類に求められているのだと、私は強く感じている。
私はここまでこの文章を書いてきて、ふと、思う。
空海とスピノザを結び付けたのは、この非暴力の学び(実戦の哲学)への気づきではなかったかと。
共感という言葉に流されずに。
自分を場として開き(無縁となり)、良き出会いの連鎖(出来事)を維持しながら、自らが変わるために学び、他者とともに変わる可能性を求め、変えるのではなく変わる(溶ける)ことで、ともに変わる方法を求め続ける。
それは、共感(答えの共有)によって流されず、問いの共有を求め続ける事でもある。
私は、そのような真に創造的な知性のあり方を、アサザプロジェクトを通して実現させていきたいと思う。
だから、私は、これからもアジールとしての霞ヶ浦に入り歩き続けるつもりだ。
霞ヶ浦の水平線と地平線が囲い込まれない限り、また、流域に広がる谷津のネットワークが埋め尽くされることがない限り、このアジールは残り、閉じられた空間に風穴を開け続けるだろう。
私という場で起きる出来事によって、世界は変わる。
私たちは、大きな権力や強力なリーダー、あるいは最先端の技術やシステムなどの変える力に頼ることなく、自らが変わることで、社会にネットワークや良き出会いの連鎖や循環を展開していくことができるはずだ。
変える力に頼るのではなく、自らが変わることによって変わること(非暴力による創造的な社会変革=出来事)を、実現するために、私たちに今何ができるのかを、アサザプロジェクトを通して問い続けていきたいと思う。