見出し画像

聖域 #3

 今日の稽古場は中野区内の公民館らしい。
 僕は衣装の入った袋を両手に、リョウコは自分のジャージが入ったスポーツバックを抱えて西武新宿線に乗りこんだ。

 電車はすいていて、僕たちは並んで坐った。ふと彼女を見ると、彼女も僕を見返してニコっと笑った。
「稽古行くの久しぶりでしょ。緊張してる?」
「いや。本番前に稽古行ったら楽しみが減るじゃん、と思ってさ」
「まだ半月前だもん。本番とはかなり違うよ」
 リョウコの話によると、佐々木さんは自分で書いた台本を平気で変えるらしく、決定稿と本番ではセリフがかなり違うらしい。確かに前回の公演を見た後、台本を読ませてもらったが書かれていないシーンがかなり多かったのを覚えている。
「お芝居って流動的に変わるものだって言ってたよ」
「佐々木さんが?」
「そ」
 そう言うリョウコの顔はとても嬉しそうだった。
 幸せなんだろうな、きっと。僕とつきあい始めた頃より、演劇を始めてからの方が幸せなのかもしれない。そんな考えが過ったとき、僕は自分の存在を考えた。もし、どちらかを選択しなくてはいけなくなった時、彼女はどちらを取るだろう。僕か、芝居か。きっと悩んでくれるだろう。例え、答えが決まっていても……
 
「馬鹿野郎! セリフくらい覚えて来い!」
 部屋中に佐々木さんの声が響いた。僕は思わず身を強張らせた。怒られているのは新人の役者さんだ。名前は田野倉君。今日一番最初に公民館に着いて、机とイスをどかして準備してくれた子だ。そういう気を配った動きは最近の若い子には珍しく、なかなか感心するわね、とリョウコも言っていた。
「役者をなんだと思ってるんだよ。セリフ覚えてなんぼだろうが。そんなんじゃ演出なんかできやしねえ!」
「すみません」
 荷造り用のビニール紐で四角く区切られた舞台の中央で田野倉君が立ちすくんでいる。怒っている時の佐々木さんには誰も声をかけられない。妙な沈黙が部屋中を包んだ。
 佐々木さんはしばらく田野倉君を見据えた後、
「言うことはそれだけか」
 と凄んだ。
「次までに覚えてきます」
「次までだぁ?」
「きょ、今日中に」
「あったりまえだ!」
 田野倉君は小走りに自分の荷物の所まで行くと、台本を広げ始めた。
「昨日の今日だもの、無理よ」
 リョウコが言う。
「別に全部覚えて来いって言ってる訳じゃねえ。このシーンをやるから出てくる役者は覚えて来いって、そう言っただろ」
「そうだけど、昨日、田野倉クン、チラシの折り込みかなり任されてたじゃない。あれだけだってかなりの分量だし」
「新入りにはそんなの当然だ」
 佐々木さんが言い放つ。
「リョウコだって、新入りの時はチラシ折った上にセリフ覚えて来ただろう」
「私はね」
「お前にできて、田野倉にできないわけがねえんだよ。甘えてるんじゃねえのか」
「すみません。昨日は覚えてたんですけど」
 田野倉君が泣きそうな声でつぶやく。
「ですけど、じゃ芝居はできないんだよ。本番の時失敗したら、客に稽古ではうまくいったんですけどって言い訳するつもりか?」
「そんな……」
「いいか。昨日の夜いくら飲もうが、遊ぼうが、セックスしようが、今、この瞬間、舞台でやることやりゃそれでいいんだよ、芝居ってのは」
 ドンと机を叩く。勢い余って台本が落ちて床に散らばった。制作の上野さんがすかさずそれを拾い集める。役者の面々は誰も刃向かえない。
 佐々木さんのお説教は続く。
「なんでわざわざ今日このシーンをやるか、わかってるのか? お前のためだろう。お前がこのシーンのメインなんだよ」
「分かってます」
「一時間だ。それで覚えろ」
「はい」
 田野倉君は台本を持って部屋から出ていった。

 自己紹介の時、彼は大学一年だと言っていた。今まで彼の人生の中でここまで人に怒鳴られる経験があっただろうか。余計な思いが過った。
「辞めさすなよ、佐々木」
 佐々木さんと一緒に劇団を創立させた遠藤さんが口を開いた。年は佐々木さんより一つ上だと聞いている。劇団風来坊の公演でずっと主役級を張ってきた人だ。佐々木さんが動の人だとすると、遠藤さんは静の人だ。
「分かってるって。俺も人を見て言ってるから」
「どうだか」
 苦笑交じりに遠藤さんが答える。
「ねえケンちゃん、ちょっと見てきて」
 リョウコが手を合わせて僕を見ている。
「わりいな、ケンジ。ちょっと行ってきてくれ」
「なんだ佐々木さん、やっぱり心配なんじゃないですか」
 僕と同じ年齢で劇団の中堅どころの森君が茶々を入れる。
「馬鹿野郎。辞めるくらいならいいが、自殺でもされてたらやっかいだろ」
「んな、アホな」
「そういうわけで、ケンちゃん、お願い」
「はいはい」
 僕は部屋を出て、田野倉君を励ましに行くことになった。
「そんじゃ十二ページからやるか」
 僕の背中に佐々木さんの声が響いた。
 
 田野倉君は一階のロビーで台本を広げていた。
 夕方ということもあって人気もなく、電気も省エネからか半分の蛍光灯が消されていた。薄暗いロビーのソファーで台本を広げている田野倉君に、僕は何となく声をかけられずに、壁越しに彼を見ていた。ふと彼が顔を上げた拍子に目が合ってしまい、どうもと声をかけられてしまった。
「心配になって見に来たんですか?」
 もう彼は笑顔になっていた。僕は少し安心して、隣に座ってもいいかい、とたずねた。
「どうぞ」
 彼は少し腰をずらして、勧めてくれた。
「覚えるのに邪魔にならないかい?」
「いやあ、実は覚えてるんですけどね、どうも佐々木さんの前だと上がっちゃって」
 確かにあのいかつい顔でにらまれたら、びびるだろうなあと思う。以前森君が佐々木さんのことを、怒った牛みたいな顔と表現して笑った覚えがある。
 僕は何気なく疑問を口にした。
「あんなに怒られて、頭に来ない?」
 彼はフフっと笑って、そうですねえと答えた。
「でも、セリフを言えない僕が悪いんですし、今回佐々木さんの一番の心配は僕だと思いますから、仕方ないです」
 なるほど。彼から悲観的な言葉はないようだ。かなり前向きな気持ちらしく安心した。佐々木さんの人を見て言ってるというのも満更嘘ではないようだ。
「役者って楽しい?」
「うーん……」
 始めて困ったような顔を作った。
「まあ、楽しいからやってるんでしょうね」
「大学でも演劇研究会みたいのがあるでしょ。どうしてそういうのに入らなかったの?」
「遊びでやってるって思われたくないですから」
「大学は遊びかい?」
「だって、佐々木さんみたいにあんなに真剣に怒ってもらえないでしょ。やっぱ、なあなあで芝居作っても良い物はできないと思うし」
「俳優になりたい?」
「そりゃ、やっぱなりたいですよ」
 小劇場出身の俳優って何人くらいいるんだろう。小劇場で役者をやってる膨大な人たちの数からすれば、ほんの一握りに過ぎないのではないだろうか。
 成功する確立も少なく、すぐに食べていけるわけでもなく、バイトをしながら1ステージ百人くらいの客の前で芝居をする。佐々木さん始め、遠藤さんも森君も田野倉君も、そしてリョウコも何を信じて頑張ってるんだろう。役者としても劇作家としても演出家としても名前や実績のない佐々木さんが発する言葉に、みんな何を感じて着いて行くのだろう。何を信じて着いて行くんだろう。
 時には罵倒され、時には喧嘩し、苦悩し、挫折を味わいながらも。
 一体小劇場って何なのだろう……

「どうしたんですか?」
 田野倉君が僕の顔をのぞき込んできた。
「いや、別に・・・」
「おっはよー」
 明るい声がロビーに響いた。女優の神保さんだった。
「遅かったですねえ」
 田野倉君が言う。
「参っちゃったわよ、最後の子供の母親が迎えに来なくってさ。一時間も待ってたのよ。あ、練習、上?」
「はい。大会議室」
「了解。んじゃねえ」
 神保さんが駆け足で、階段を上がって行く。彼女の仕事は保母さんだ。だから母親が子供を迎えに来るまで拘束されてしまうわけだ。
「にしても、元気だよなあ。そして相変わらず年齢不詳」
「やっぱそう思います?」
「あんな童顔じゃ、どっちが子供か分からなくなりそうなもんだ」
「でもあれで二七ですから」
「会うたびに若くなってる気がするよ」
「だから今回も女子高生の役ですよ」
「マジか……」
 いくらなんでも無理あるなあ、とは言えなかった。
「お疲れ様」
 神保さんとは打って変わって、落ちついた大人の女性の声がした。
「おはようございます」
 田野倉君が立ちあがって頭を下げる。佐々木さんや遠藤さんと共に劇団創立から参加している加納さんだった。
「田野倉、何やってるの、こんな所で」
「セリフを、覚えてるんです」
 彼の言葉にも緊張がうかがって取れる。ある意味佐々木さんよりも発言力の大きい人だ。
「そう。頑張ってね。期待してるから」
「ありがとうございます」
 加納さんは小さくうなづいて、今度は僕を見つめる。
「お久しぶり。元気だった?」
「え、ええまあ。」
 何となく僕も立ちあがってしまう。軽く会釈をして、頭を掻く。
「今日はリョウコの付き添い?」
「佐々木さんに呼ばれまして」
「可哀想に。私たちには言えない愚痴の聞き役ね。あれで結構ナイーブだから、気にすることが多いのよ」
「ですね」
「ま、よろしく面倒見てあげて」
「は、はい」
 加納さんは誰が見ても美人という部類に入るだろう。モデルでもやってるのかと思わせるスタイルだし、佐々木さんには悪いがこの劇団にはもったいない人だ。でもそれだけじゃない、理知的な雰囲気がそうさせるのかもしれない。
「それじゃ」
 加納さんが階段を上がって行く。腰まで伸びたストレートの黒髪がフワッと広がりながら揺れる。まるでオーラのようだ。姿が見えなくなった所で田野倉君がフウっと大きく息をついた。
「やっぱ新人の僕は緊張しますね」
 そう言って椅子に腰掛ける。確かにそれはそうだろう。この僕だって緊張するんだから。
「俺、初めてこの劇団見たとき、加納さんの芝居に圧倒されましたから」
 田野倉君が苦笑いを浮かべた。
「一緒に舞台に立てるだけでも幸せですよ」
「そういうもんかね。って、役者になりたいんじゃないのか?」
「それはそれ。これはこれ」
「都合のよいことで」
 そう言って僕が肩をすくめると、二人で笑いあってしまった。
「田野倉クン」
 リョウコが階段の上から声をかけてきた。
「加納さん来たから、衣装合わせだって」
「はい、すぐ行きます!」
 僕たちはそろってロビーを後にした。

いいなと思ったら応援しよう!