見出し画像

アートって?

美術館、芸術祭で作品やプロジェクトを見たりすればするほど、アートってなんだろうな?となるんです。
ここで言う「アート」は「センスあるね!」的な、ある種の感性を指す意味ではなく、1つの作品ないしプロジェクトとして見られているかどうか、の問題です。

東京ビエンナーレで鑑賞(かつ案内)した宮永愛子≪ひかりのことづけ≫は、とりわけ作品受容について考えるヒントがあちらこちらにありました。

サウナみたいな暑さの下で作品案内をしながら、湯島聖堂に来る人たちの人間観察をしていました。ちょっとお散歩、という気持ちで来る方もいれば、受験の合格祈願の為に緊張した面持ちでやってくる学生さんもいるし、定期的に通っていらっしゃるんだろうなーという方もいました。

ほとんどの方はたまにしか御堂に来ないようで、そういった方にとっては宮永さんのインスタレーションに対して「もしかしてこれ、今しか置いてないやつですか?」というような反応に落ち着きます。
ここには書けませんが、その一言からコミュニケーションが広がり、来場者の経験が作品と共鳴して出てくる熱量の籠った言葉を聞けたのがとても面白かったです。

ただ、定期的に通っていらっしゃるであろう方に関しては、少し顔を歪めながら参拝だけして足早に帰っていかれる方もいました。私は宮永さんの作品が好きですが、その光景に「そりゃそうだな」とも思いました。

パブリックアートの文献にはよく、「公共空間に作品を置く事に対して様々な反応がある」と書かれています。本で読んでもなんとなく他人事だったので、作品とそれを見た人々の反応までを含めた「本物」を見る事がいかに重要か、身に染みて経験しました。

美術館という空間に足を踏み入れるときは多かれ少なかれ、誰もが「これから作品を見る」という意識を持っている一方で、
人々の生活空間に干渉する芸術祭では、ある日突然未知の物体が置かれる現象が生じてしまいます。

各地で芸術祭が盛り上がりを見せている今日、それを行うことと同じくらい、そこで暮らしている人が日常の中に突然現れる作品を見て何を感じるのかということにも、目を向けていきたいものです。

あとは、一緒に入っていた方からお伺いしたお話も面白かったです。≪ひかりのことづけ≫の開場前に、ちょっとした準備「作業」があります。特定の場所に水を散布するのですが、スタッフが水を撒く姿を写真におさめていた方がいたそうです。

少なくとも私からしたら、かんかん照りのお日様下で水を撒く「作業」ですが、来場者の方にはパフォーマンス「アート」に見えたのでしょう。

もう会期は終了しましたが、このプロジェクトを他者に語るときにどこまでを「アート」とするのか。
私が「アート」として認めることのできる価値とは何なのかを、《ひかりのことづけ》が問いかけている気がしてなりません。

いいなと思ったら応援しよう!