恩師という名のファンについて
私にはファンがいる。ただの一般人が何を、と思われるかもしれないが、あの人は間違いなく私のファンなのだ。
正確には、私の「文章」のファンだ。
恩師とは、と問われたとき出てくるものだろうか。
私の恩師を一人挙げるとすれば、それは小学生の頃の担任だろう。
当時の私は酷く捻くれていて、大人なんて大人しくしていれば、正解を常に出していれば、良い評価をくれるものだと思っていた。
本ばかり読んで自己主張をせず真面目な子。
もちろん、大人しい子を好きな大人と嫌いな大人がいるけれど、基本的には否定する理由はあまり見当たらないものだ。
なので私は舐め腐っていた。大人というものは弱い素振りをすれば許してくれるのだと。
結局私が本当は何を考え、何を思っているかなど求めていないのだからと。
実際、いつだって作文も感想文も道徳のアンケートも、花丸だった。
私の書く文章はいつだって模範的で、社会的理念と文章の目的を自分なりに考えて作成されていたからだ。
ここまで読んでいただいた方にはもう伝わっていると思うが、そこそこのクソガキだった。
最近は道徳の授業というものはあるのだろうか?ビデオを見たり、文章を読んで感想を語り合う時間はあるのだろうか?全く最近の教育には詳しくないが、正直当時の捻くれた私にとっては、ほぼ無駄であったと思う。なぜなら提出する回答ほぼ全てが偽りだからだ。
ようは厄介な反抗期だ。
小学生4年生くらいで反抗期。当時としては早すぎた。
ところが教師Aは全てを覆した。私の教科書のような回答はてんで響かなかった。全く花丸が貰えない感想文を見ながら、私は教師Aを睨みつけた。
私の母は厳しくて過保護なのだ。花丸が貰えないと咎められるというのに。
ならもうどうでもいいか、と本音を書き殴った用紙に、何故か花丸がついてきた。そしてコメントに書かれていた言葉。
「やっと本音を聞かせてくれた」
実に痒くなりそうな話だ。書いている私が小っ恥ずかしい。
当時の私にとっても「こいつはなんて恥ずかしい奴なんだ」と思ったし、正直嫌いだった。
なので幻滅させてやろうとそれからもずっと歪んだ知識と歪んだ主観で作られた文章を提出し続けた。もちろん結果は全て花丸。
正解などないと、お前の考えることを書くことが大事なのだと、教えてくれてありがとうと。
そんなことを言ってくれる大人はいなかった。真剣に聞いてくれる大人なんて、今まではいなかった。
ただの子どもの戯言なのにと、私は一人で泣いた。
本当はわかっていたからだ。
私の見えるものは小さくて、世界は酷く狭くて、大人からすれば笑って済ませられて然るべきだと。
それでも私はずっと欲しかった。信じられる大人が欲しかった。
小さな世界の中で未来に希望を持てなかったから、大人というものを信じたかった。
いつか私も大人になるのだから、絶望を少しでも減らしたかった。
それからの私は驚くほどに変わった。本音を言うようになった、友人ができた、話すのが上手になった、人を笑わせることを覚えた、笑顔が増えた。
私にとって教師Aは誰よりも信頼できる大人になった。
時は流れ、アラサーの私。
教師Aへ思い悩む度に相談していた子ども時代を超え、今は年1回送ればいいほうだ。
年賀状すら数年前から辞めてしまった。
そんなある日、小学生時代のクラスメイトから連絡が来た。教師Aが私と話したがっている、と。
驚き、久しぶりにメールを送り、そんなに生存を心配させてしまったかと反省。すると教師Aからの返信はこうだった。
『久しぶりにお前の文章が読みたかった』
………おい!!!!
思わず携帯とともに布団に倒れ込んだ。どんな理由だそれ。
それはどうなんだとか他の人を巻き込むなとか色々送ってから思うことは一つ。
この人私の文章のファンだ……ファンとかいるんだ……
別アカで小説を細々と書いていた頃ですら、ここまでのファンはあまりいなかったように思う。なんだか感慨深いとともに、複雑な気持ちになるものだ。
私は私の文章は嫌いではないが、好きでもない。
でもこれからはもう少しネットの海に放流してもいいかもしれない。小説という形ではないものでも、たぶん。
ということでこれからは好き勝手ここに残していこうと思う。
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