古代史随想(2)
(2022年8月の記事の再掲です)
いらしてくださって、ありがとうございます(´ー`)
NHKの『歴史秘話ヒストリア』が終了すると知ったときは、さびしく思っていたのですが、後継番組の『歴史探偵』もまた面白く、古代関連の放映回は欠かさず視聴しております。
先日の放送回は『飛鳥の古墳ツアー』ということで、奈良・飛鳥の古墳を自転車でめぐりつつ、墳墓の形の変遷や、被葬者の謎に迫っておりました。
古墳といえば、大阪府の大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳と習った世代^^)などで知られる「ドアの鍵穴の形」の『前方後円墳』が有名ですが、ほかにも真ん丸な『円墳』、四角の『方墳』、方墳の四隅がそれぞれビヨーンと伸びた『四隅突出型古墳』などなど、呼び方や分類もさまざまです。
画像でご紹介できればよいのですが、手持ち資料を使うのは著作権の問題がありますし、いずれ記事ではスケッチブックに手描きのイラストをご用意できたらと思っております(絵心? ナニソレオイシイノ?^^;)。
さて。『歴史探偵』で紹介されていた古墳の一つは、蘇我馬子の墓といわれる石舞台古墳。
こちらは死者を埋葬する「玄室」を覆っていたはずの盛り土が、完全に失われ、むきだしの石組みが草地にぽつんと存在しています。
ぽつん……などと書きましたが、十年ほど前に当地を訪ね、石組みの中に入ってみたところ、たいそう大きな石が使われており、天井の高さに圧倒されたことを覚えております。
この石舞台古墳、墳丘を覆っていた「葺き石」は現在も残っていて、四角い『方墳』であることが確認されています。
番組では、こうした『方墳』の形は、用明天皇(聖徳太子の父)、崇峻天皇、推古天皇ら、「蘇我系の血の濃い天皇陵に特有のもの」だと紹介されておりました。
一方、舒明・皇極(斉明天皇として重祚)・天智・天武(妻の持統と合葬)・文武天皇らの陵は、墳丘が八角形の『八角墳』。
ここに眠る王たちは、蘇我色が薄い、という見解なのですね。
『方墳』から『八角墳』への形の変化の境目は、645年に起きたとされる「乙巳の変」であろう、と説明されていました。
当時、臣下の身分でありながら、政治の実権を握っていた(とされる)蘇我入鹿が、中大兄皇子(のちの天智天皇)や中臣鎌足(のちの藤原鎌足)らに誅殺された「乙巳の変」。これを機に、蘇我氏の本流一族は、政治の表舞台から姿を消したとされています。
蘇我系の力が強かった時代からの脱却を、「墳墓の形で(も)示した」のが、天智天皇(皇極天皇説もあり)だったのでは、とのことでした。
蘇我氏自体も、欽明天皇(見瀬丸山古墳)までの前方後円墳から、「大王・支配者層の墓は、四角い方墳へ」と形を変えた、ということであり、造墓の制度を切り替え、政治的・政策的に利用して、王の権威を高めようとした、と言えそうです(あるいは、欽明天皇より後の王統は、これまでとは違う、ということを示そうとした可能性も……)。
蘇我氏のことをいろいろ調べていますが、古墳の形について、645年あたりに画期があったことは恥ずかしながら存じませず……。手持ちの古墳関連の資料をあたってみましたら、書棚の未読本のなかに『天皇陵の謎』(矢澤高太郎:文春新書:2011年第1刷発行の2019年第8刷)があり、早速、読んでみましたら、番組で紹介されていた説も記されていて、なかなか興味深い内容でございました。
番組では舒明天皇以降の「八角墳」は王者の墓であり、「八角形」が選択された理由については、「天皇が四方八方あまねく国土を見渡して統治する、という意味から王のシンボルとなった」という解説が紹介されておりました。この八角形について、『天皇陵の謎』のなかで触れられていた箇所を一部、すこし長くなりますが以下に引用させていただきます。
四方八方をみわたすことから八角形が王墓にふさわしい、という説明も、八角形がなぜ支配者のシンボルとして相応しいのか、古代中国思想説とやらを知らぬ身としては、なかなか理解に到らぬところなのですけれど^^;
個人的には、皇極陵とみられている八角墳・牽牛子塚古墳を上空から撮影した姿をみたときに、古代中国の「易」から生み出された『後天図・先天図』(wikiの「八卦」をご参照くださると画像がございます)を立体化させたものが、八角墳の形なのでは、と感じられまして。
日本書紀の皇極天皇や天武天皇の条には、道教、五行思想、風水などの影響が強く感じられます。
八卦に方角・五行・星・動物など、あらゆる事象を組み合わせることから、八卦イコール世界をあらわすとも思われ。
古代中国で生じた易占術が、王朝交代の理由づけにも使われ、やがて「八角形」が王としての権威づけの下敷きにもなった……ということなのでしょうか。
そういえば、日本書紀や古事記には、八という数字がたくさん登場します。八百万の神々、八咫烏、八咫鏡、八岐大蛇などなど。
記紀の編纂を命じた天武天皇自身が、道教など古代中国の文化を強く意識していたならば(「天文遁甲」に通じていたという記載が日本書紀にあり)、王にふさわしい数は「八」であるという思いを持ち、それを記紀の記述にも反映させたのでは、という想像もできそうです。
書籍『天皇陵の謎』には、天皇陵の治定(陵墓の被葬者を特定すること)に関するあれこれ(……というよりドタバタ)や、裏話的なものもまとめられていて、また、著者が元新聞記者であられたことから文章も読みやすく、読み物として楽しめます。ただ、取材の折の関西学界の方々への恨み節や、物申す的な記述も度々あって、読んでいて「(-_-;)……」となるところもございました。それでも、取材記者に漏らした研究者の方々の本音だったり、皇后の陵墓は里方(実家)に造られた可能性など、いろんな想像がひろがる一冊でした。(あと、解釈が異なる研究者同士であっても仲良くやられたらええのになぁと思ったりもいたしましたよ^^;)
最後に。すこし前に、1984年放送のNHK特集『実験推理 飛鳥石舞台』という番組の再放送を視たのですが、古代の工夫が凝らされた技術であれば、石を運ぶこと自体は、それほどの難事業ではなかったようにも思えます。
とはいえ、巨岩を運ばせるだけでなく、当時はそれを覆う盛り土があり、そこには一面に葺き石も貼られていたわけで、被葬者の力の大きさを感じました。ここまでの規模の古墳が蘇我馬子の墓であるとするなら、蘇我氏は単に「一豪族」ではやはりありえない、とも想像するのでした。
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古代史が好きで、資料をもとに自分なりの日本の古代の姿を思い描いております。こうして記事にした内容については、さまざまなご意見もおありかと存じます。けれど私に議論をする目的はなく、持論を正しいとも考えてはおりません。あくまで小説の素材にしたい書き手の考察の一つとしてお読みいただけましたら幸いです。
また、コメント欄にて、記事にかぶせた政治・特定の人や団体などについてのご意見などはご遠慮くださいますようお願いいたしますね。
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最後までお読みくださり、ありがとうございます<(_ _)>
今年もあと四ヶ月を切りました。暑さはようやく一段落してきたようですが、台風などにはしっかり備えねばならぬ時期でもあり。みなさまも油断なく、どうぞ備えを万全に。
明日もみなさまに佳き日となりますように(´ー`)ノ