エリナー・リグビーは歌うな

一応。『SHINE SHOW!』終盤の展開に言及します。



 当時はそこまで好きでなかったけど、今思うと打ち上げのカラオケ、という文化はなかなか面白いものだったのだと思う。部活の友人や先輩と、いっしょに地元で燻っていた初期の劇団員と、どこにそんな元気があったのかわからないがとにかく朝まで決行されたカラオケは、上の世代の洋楽を「ロック」だと――そしてそれ以外を「ロックじゃない」と――勘違いし、同世代のJ-POPにあまり触れずに育ってしまったおれにとっては、いわゆる「各世代のヒットソング」みたいなものに触れる、貴重な場だった。
 だれかが『おじゃ魔女カーニバル』のあとに『紅』を、CHAGE and ASKAの次にBUMP OF CHICKENを歌う。『金太の大冒険』も『ピエールとカトリーヌ』も、西野カナがやたら挑戦的なDメロを書くのも、SOUL'd OUTが結局なんて言っているのかも、カラオケでなければ知らないままだったろう。各々が「歌いたい」曲を選んだだけのマイクリレー、だからジャンルにも雰囲気にも一貫性のないセットリストが生まれる。現代の、アルゴリズムが気を利かせた「シャッフル」ではない、個人の好み度外視のランダムプレイ。それは日頃自分の観測範囲のない音楽を聴く、貴重な機会だったのだと思う。願わくば、おれが歌ってまわりが沈んだ、憂歌団の『嫌んなった』もGREEN DAYの『Minority』も、だれかに「誤配」されていますように。

 そういえば昔、フランス・ベルサイユから来日したアニメオタクといっしょにカラオケに行ったことがあることを思い出した。「地元のオタク、BLEACHとナルトしか知らない。つまらない」と嘯きながら、おれたちも知らない古いロボットアニメの主題歌を熱唱し、「次のスパロボ、GガンダムとSEEDしか出ない、つまりガンダム出ない」という名言を残して帰国した彼は、元気だろうか。

 ポップカルチャーの役割とは、届かないはずの他者に届けること、断絶を埋めることにあると思う。本来の主題(テーマ)や形式(ジャンル)が持つ興味・関心の限界を飛び越え、ときに世代も場所も乗り越えて伝播する。そのときにセルアウトな「わかりやすさ」「面白さ」で、軽々と。さまざまな芸術・文化が分断の道具にされ、階層化し閉鎖的になりつつあるなか、アーティスティックにも、アカデミックにも、ポリティカルにもなりきれない「エンターテイメント」を、だからおれは重要だと考える。中途半端だけど、ある意味で無責任だけど、なればこそ、それは拡がる。
 もちろん、作る側はそこに「毒」や「薬」を忍ばせる余地を作っているものだから油断はできないんだけど。というか、「わかりやすさ」の裏に潜む「鋭さ」「苦さ」みたいなものにこそ、おれは感動したりもするのだけど。

 だから今回の『SHINE SHOW!』でおれが毎ステージ感動してしまうのが、終盤の『Street Dreams』。出演者のくせになに言ってんだか、と思うけど。
別におれはヒップホップにも日本語ラップにもそこまで造詣と思い入れがあるわけじゃないけど、『Street Dreams』をトラックにしてのフリースタイル・バトルのシーンで、決してヒップホップカルチャーが浸透してはいないだろう客席で、あれだけの熱を産み出せている景色を、おれは本当に美しいと感じる。あれこそ、あの夜のカラオケボックスで繰り広げられていたような「誤配」の現場なのだと思う。ポップでセルアウトな、「ただのエンターテイメント」だからこそ、世代も階層も入り混じった、ある意味で異様な空間を作り出せる。ただのエンターテイメントがカルチャー足り得る瞬間だ、と過言を吠えたくなる。

 「商業演劇」と「小劇場」(どちらも嫌いな言葉だけど)の、
 「ミュージカル」と「ストレートプレイ」の、
 「コメディ」の、
 「演劇」の、
 断絶を、分断を、無理解を、無関心を。
 軽々と、越えたい。
 それには畢竟、もっとウケたい。コメディだから。

 シアタークリエ『SHINE SHOW!』、終盤戦に突入します。


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