断片日記23.9.17
以前冨坂がどこかで言っていたのだが、おれの第一印象は「ノータイムで物語の話ができる奴」だったらしい。前置きとか雑談なしに、フィクション―まだこの世に存在しない作品の構想も含め―について話せることが珍しかったという。
より正確に言えば、当時のおれは物語の話ができるというか、物語の話「しか」できなかった。なにかの「作品」をフィルターにしないと他人と上手く会話ができなかった。いや、今もそうか。
昔から衣食住にそんなに興味を持てないし、まっとうに仕事もしているわけじゃないから、そういう話題も苦手だ。生活とか人生とか、そういうものへの関心が大きく不足している。他人が大事にしているものへのプライオリティが低いことを、自覚し始めたのはいつ頃だろうか。軽くナードだけどでも、ギークと言えるほどの技能はなくて、フリークというには社会から隔絶できないでいる。「生活」というやつに憧れはあって、何度もそれにチャレンジした。その度に、おれには向いていないと投げ出して、今度は「孤高」を気取るも、それについて回る孤独には耐えられない。
こっちは伊藤さんに言われたことだけど、おれは「社交性がないんじゃなくて社会性がないだけ」らしい。なるほど、と思った。そしてそっちのほうが致命的じゃないか、とも。
恥ずかしいことに、だからたぶんこれは、劇団をやっている、辞めていない理由の大きな部分だ。生活ではなく創作をやり続けるため、自身の中心に置くためのの方便であり、そして他人と関わるための言い訳として。読んだ小説の話を、観た映画の話を、芝居の話を。それらを、「生活」の中心に置くために。もしくは中心を埋めるために。演劇も、他人とのものづくりも、得意だとも向いているとも思わないけど、「さて、よいしょ」と腰を上げる原動力には間違いない。
昨日の帰路、ヘロヘロになりながらのバカ話で、でも結局芝居の話が一番盛り上がってしまって、そんなことを思った。今までも何度も何度もそう思ったけど、また改めて自分の「理屈」を確認する。
うーむ。ツアーファイナルの朝、コインランドリーにひとり。多分にメランコリーである自覚はある。
しかし乾燥機め、表記の時間突っこんでもなんか湿ったままじゃないか。そろそろ小屋に向かいたいんですけど。
生活め。