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エーリッヒ・フロムの言う愛する能力と、アイドルを推すことと
愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏み込む」ものである。愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない、と言うことができよう。
フロムの著作といえば、「自由からの逃走」、そしてこの「愛するということ」が有名だろう。
僕が、この本を買ったのは2016年のことだった。
当時付き合っていた彼女に振られて、半年以上経っていたが、まだその恋を引きずっていて、好きってなんなんだよ、という気持ちから購入した記憶がある。
そして、2021年10月、また当時付き合っていた恋人と別れ、再びこの本に目を通す。
さらに、三度目の読書のきっかけとなったのは友人の結婚だった。
この本は、読むたびに読後の感想が変わった。それだけ自分が成長しているということなのかもしれない。
愛という感情は、人誰しもが身近にある感情であり、それが故僕たちの成長に応じてその捉え方が変わる。だから、この本は自分の人間的成長を映してくれる鑑だと思う。
初読時、僕は序文の内容から既に衝撃を受けた。
愛というものは、その人の成熟の度合いに関わりなく誰もが簡単に浸れるような感情ではない
自分の人格全体を発達させ、それが生産的な方向に向くよう、全力をあげて努力しないかぎり、人を愛そうとしてもかならず失敗する。
多くの人が、愛するという行為は、その人の能力に関係なく湧水の如く溢れ出る制御できない感情の発露であり、そこに技術(当然、誰かの行為が自分に向くようにする恋愛テクニックとは別の話だ。)の介在する余地はないと考えているのではないか。
僕もその一人であったが、フロムによれば、冒頭の引用のとおり、愛することは、与えることのできる者であるというのだ。
もちろん、愛することの性格は、すべてがこれに集約されるわけではなく、この後も、様々な構成要素が紹介されいるが、まずもってひとことで言い表すならこれで足りよう。
「愛するということ」について語るのに、一記事ではあまりに短すぎるから、その深淵を探究するのはまたの機会にして、なぜ僕がこの言葉を思い出したかを説明したい。
僕が、オタク的活動にのめりこまなかった理由として、僕のはじめての記事では、自分の過去を挙げた。
これは、本質的には正しいのだけれど、それ以外にもいくつか補助的な理由があり、その一つに他人と比べてしまうというものがある。
たぶん、僕は何か夢中になるべきものを得たら、すぐにそれに夢中になる性質を持っていて(この話をしていたら武者小路実篤の友情についても書きたくなってきたので、これは後日書こう→書きました https://note.com/asarinosakamu_c/n/n09a2601b550b)、いわゆる熱しやすいタイプだ。
そしてその熱中具合と熟練度は、例えるならクラスで一番くらいのところまではすぐに到達するように思える。
それこそ、僕がまだ子どもだったころは、インターネットもまだ黎明期で、特にSNSなんてそんなに発達していなかったから、自分のコミュニティで一番であれば、自分の視界には、それ以上の人は映らなった。
しかし、この高度に発達した情報社会では、いとも簡単に「超人」たちのすさまじい熱の入りようと、それに伴う卓越した実績を目にすることができる。
それを目にしたとき、僕は、今までの自分の努力に何か徒労感のようなものを覚え、熱が冷める。そういったようなことを、近年は繰り返してきた。
僕のプライドの高さにも大いに原因があるだろう。何かに取り組むらかには、人より優れた実績を残したい、逆にそうでなければ意味がないと思ってしまう節があり、その性質は、ある種競争社会では役に立つこともあったのだが、こと趣味の世界においては、楽しみを失うことにつながりかねない。
それこそ「推し活」なんかそうだ。まさに文字どおり推しがすべてという価値観の人は、可処分所得・時間の相当をアイドルに使い、束のようなチェキ券を握りしめ、その熱意は彼女らにも届き認知される。
一方で僕は、そこまでの覚悟があるわけではない(愛知から大阪までCDを買いに行くくらいわけはないとはいえ)し、何個も同じグッズを買いあされるほど割り切ってはいない(派生版の全バージョンそろえたりぐらいはするとはいえ)。
結局その程度にしかなれないなら、推さなくてもいいかなあみたいな気持ちになる(というかなっている。)。
ただ、推し活どうのこうのを除き、その傾向というのは、あまり健全なものではない気がする。現代において、自分に比類する者が見当たらないほど何かにのめりこめる人間などほぼいないだろう。スマホを開けば、自分を超える者がわんさか出てくるのが、99%をはるかに超える人間の実情ではないか。
そのような中にいて、自分より上の者を見て、やる気をなくしていたら、ないもできなくなると感じた。
だから、僕は、偉大なるフロム先生の言葉を、恐れ多くも自分のモチベーションのために、(ある意味不当な方法で)使わせてもらうことにした。
与えるという行為のもっとも重要な部分は、物質の世界にではなく、ひときわ人間的な領域にある。では、ここでは人は他人に、物質ではなく何を与えるのだろうか。自分自身を、自分の一番大切なものを、自分の生命を与えるのだ。これは別に、他人のために自分の生命を犠牲にするという意味ではない。そうではなくて、自分のなかに息づいているものを与えるということである。自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づくもののあらゆる表現を与えるのだ。
推し活に話を戻せば、物質的な与える行為では僕なんかがTOに及ぶところでは当然ない。
そもそも、推すという行為が愛なのか、という疑問はおいておき、では何が物質的なものに代わる主要な与える行為なのかと言えば、フロムの考えを借用すれば、人の内面に息づく人間性そのものなのだ。
この言葉は、愛において、人と人との関係があくまで内面的な問題であること、つまり、人と人の間を何が媒介するか、何によって繋ぐかが重要なのではないことに気づかさせてくれる。
僕の解釈では、重要なのは、自身の内面において愛するという確信を持ち、その発露は内面を与えるという行為であり、その源は、他者に何かを芽生えさせたいという感情だ。(もちろん自分への報酬を企図してではなく、単に相手が何かの果実を得ることを目的として。)
そういう内面の問題であるならば、ほかの同じ志を持つものがどの程度傾倒しているか、自分がそれに比べてどうであるかなんて問題ではなくなるのだ。
これは、推し活のみならず、自分と他者が関係するあらゆる行為についてもいえることだと思う。
現代があまりに他者と自分を比べやすい社会になってしまった(そのうえ、社会の参加者たちは自分と人を比べたがる)から、忘れがちなのだが、基本的に人間の行為は内面的なところに本質があるのだ。
愛するという根幹的な行為でさえ、内面の問題がまず先にきて、そのあとに人と人との相互関係の話になるのだから、いわんやその他の日常の行為をやである。
自分が何か向き合いたいものがあるなら、まずは自分の心の中でそれとしかと相対し、そこから自然と実際にどう向き合おうとすべきかが自分の中で決まり、行動に現れるのだ。
何かに向き合う、つまり愛をもって何かに接するという行為のなかには、対象がどのようなものであっても、そのような共通の性質があるから、フロムも次のように言っているのだろう。
愛とは、特定の人間にたいする関係ではない。愛の一つの「対象」にたいしてではなく。世界全体に対してどうかかわるかを決定する態度、性格の方向性のことである。
もし一人の他人だけしか愛せず、他の同胞には無関心だとしたら、それは愛ではなく、共生的愛着、あるいは自己中心主義か拡大されたものにすぎない。
ところがほとんどの人は、愛を成り立たせるのは対象であって能力ではないと思い込んでいる。それどころか、誰もが、「愛する」人以外は誰も愛さないことが愛のつよさの証拠だとさえ信じている。
フロムのいう愛とはきわめて汎用的な態度であると僕は思う。
だから、これらの言葉が、他人と自分を比べてしまって、落ち込んだりやる気を失ってしまう人に届き、そんな他人のことを気にするよりも、自分の内面的な思いのほうに目を向けてもらえるようになればうれしい。
なお、フロムの言葉を、きわめて恣意的な解釈と使用をしてしまった僕に対し、以下のフロムの言葉を自戒としたい。
重要なのは、(中略)手近にある理屈に飛びついてそれを安易に合理化しないことである。
いつか、彼の言葉にもう一度しっかりと向きあいたいと思う。