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アイドルは本当に清純であるべきか(武者小路実篤と東京ディズニーリゾートの関係性について)
しばしば、ファンはアイドルに対して純潔さを要求する。それは、我々に見ることができる彼/彼女らの一挙手一投足に対してのこともあるし、あまつさえ、カトリックのシスターがごとき清廉性まで求められることもある。
後者のような清廉性を一人の人間たる彼/彼女らに求めるのは、世間の十代・二十代の男女が通常どうであるかを考えれば、無理筋であることは明らかだが、では前者はどうだろうか。彼/彼女らは、その職業にある以上、常に清くいないといけないのか。
部分的にはそうかもしれない。"idol"の単語が示すとおり、彼/彼女らは、そのファンにとっての何らかの精神的依存の対象である。単なる執着ではなく、応援、恋慕、共感、庇護その他の様々な感情で表現できるが、いずれにせよ、ファンはその目に映るのが彼/彼女らの実像であれ、虚像であれ、そこに幻想を抱く。
2011年、アイドル的人気を誇ったとある人気女性声優が、出演作で知り合ったミュージシャンと同棲していると、ストーカー化したファンがすっぱ抜き(!)炎上騒ぎになった。世論の全てが彼女らに批判的なわけではなかったが、少なくとも批判一色に染まっているインターネット上の界隈は存在した。
この事件に、僕は強く違和感を覚えたことを、今でもよく記憶している。
このとき、「幻想を売って金を稼いでいるのだから、どんな経緯であれ、バレた時点でプロ失格だ」といったようなもっともらしい声もあった。
僕は、その意見には、半分しか賛同できない。
「幻想」という話で言えば、武者小路実篤の小説、「友情」には、男女の関係について、「幻想」と絡めて以下のような記述がある。
しかしその女でなければとは云えないだろう。男と女はそう融通のきかないものではないよ。皆、自分のうちに夢中になる性質をもっているのだ。相手はその幻影をぶち壊さないだけの資格さえもっていればいいのだ。
僕がこの本に出会ってのは2016年、大学3年生の頃だ。例によって彼女に振られたばかりで、多分古今東西の恋愛小説を読み耽っていた。ダフニスとクロエや、潮騒を読んだのもこの時期だと思う。
この一節は序盤のものだが、僕の心に深く刻まれた。
結局、理論上最高の相性の男女が出会い、かつ恋に落ちる確率など天文学的な確率の低さなのだ。世の中の多くの人は、そのような相手とは出会うことなく、それでも添い遂げる誰かを見つけることになる。
自身が会ったことのある人間の数を数えてほしい。それを日本の人口で割ってみたら、理論上最高の相手に出会うことが極めて困難であることは、すぐわかることだ。
しかし、そんな中において、我々はフロムのいう「覚悟」をもって添い遂げるべき誰かを愛するわけだ。
いったい何が我々をしてその覚悟を負わしめるのか。もちろん、確率論からすれば、それは、蛤の貝殻のように、相性がぴったり合っていることによるものではない。実篤の言うとおり、自分の幻想をぶち壊さないだけの相手が自分の前に現れたか否かである。それを運命と呼ぶ人もいるし、そうでない人もいるだろう。
だから、誰かに対して完全無欠を求めることは、はなから間違っている。
アイドルに話を戻せば、確かに彼/彼女らが売っているのは、幻想かもしれない。しかし、その幻想が打ち砕かれるか否かは、彼/彼女らの実像、つまり彼/彼女らが実際にどのような人間であるか、またどのような振る舞いをするかに依存すべきではないと思う。一般の人でも非難されうるような著しい不行跡を除けば、彼/彼女らがすべきことは、アイドルという虚像を映し出す空間において、虚像をきれいに保とうとすればよいだけだと思う。
僕は、特に大学生のころ、東京ディズニーリゾートが好きだった。東京に居たためにそこが近かったというのもあるが、その場所が作り出す幻想の空間が好きで、現と明確に隔離されているような錯覚を起こす雰囲気が気に入っていた。
言うまでもないが、東京ディズニーリゾートにあるすべては作り物だ。シンデレラ城に姫は住んでいないし、プロメテウス火山はプラスチックとセメントの塊に過ぎない。ミッキーマウスは着ぐるみだ。
だが、それによって幻滅する人がいるだろうか。
僕は、それが現実でないと知ってなお、いや現実でないからこそ、それに酔いしれる。嘘を承知で楽しむのだ。そのように、我々は、虚像を虚像と知って尚、虚像を愛でる性質を持っている。
そうであるならば、アイドルだけが実像と虚像が重なることを強要されるのはなぜか。
それをしいる人がまだいるとすれば、サンタクロースはいないとバラされて怒る子供のような真似はやめるべきだ。大人であるなら、夢と現実の区別はつけて、その上で夢を楽しむべきだ。
一方で、アイドルも、(みんな十二分にしてくれているが)虚像を保つ努力はあって然るべきだとは思う。
アイドルという文化は、日本と、その模倣的発展として発達した韓国ぐらいにしか存在しない。
日本的本音と建前論が、その成立の根底にあることは不自然ではない。
たとえば、バラエティ番組のドッキリ企画において、その台本を演者が承知しているか(つまりいわゆるヤラセか)は問題にすべきではないというのが、世の多数派であると信じている。
それは、エンターテイメントとして楽しめばいいからだ。
でも、バラエティ番組の制作者が「これはヤラセです」と公言することは決してない。それは、もちろん本当にヤラセではないからなのかもしれないが、建前を楽しむという暗黙の了解がそこに存在するからだと思う。
そのためには、建前を作る側も、建前が建前として成立するだけの努力はしてしかるべきだろう。
アイドルも同じで、実態がどうであれ、建前を売る以上はそれをきれいに保つことぐらいはしてくれてもよい。だか、それ以上のことを求めるべきでないと僕は思う。プロとしての仕事をしてくれたら、それで十分だ。
いずれにせよ、どうしたって、極めて少数の例外を除けば、アイドルは現実足り得ないのだから、虚像を虚像として楽しむべきだろう。
もしあなたが大人ならば、あなたは賢くなりすぎて、虚像には騙されないはずだ。虚像を実像と信じることなく、虚像は虚像として認識できる。そして、大人とは、虚像を虚像として受け入れて、楽しむことができる人だと思う。子供のように虚像を実像と信じることもできず、かといって虚像を虚像として楽しむことができない、子供にも大人にもなれない人だけが、虚像は嘘だと糾弾する。それはあまりにも「子供」すぎないだろうか。
せっかくなのだから、賢く、楽しく生きよう。