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音楽教室の思い出(母と私のこと:5つめ)
幼稚園の頃から、小学校2年生ぐらいまで、月に2回ほど、ヤマハ音楽教室に通っていました。その日は母も仕事を休んで朝から家にいるので、ちょっと特別な気分でした。
音楽教室は街中の大きな商店街の中にありました。毎回のお楽しみは、丸善に寄ることでした。ここでは母と別行動になります。子ども向きの本のコーナーに連れていかれ、本を眺めます。天井が高く、子ども心に、そこにいることが誇らしくなるような書店でした。毎回、どれか1冊、買ってもらえることになっていました。岩波の「ひとまねこざる」「ちいさいおうち」「こねこのぴっち」や「うさこちゃん」シリーズなど、じっと眺めます。
「どれがほしいの?」
と、母が戻ってきたときにすぐに指させるように、しておくのでした。
そのあとは丸善の2階にある喫茶室に行きます。カウンター席のみです。小さな私はどうやって座ったかは忘れましたが、母はコーヒーを、私はココアをいつも注文しました。お店の女性が1人でてきぱきと働くのを見るのが大好きでした。使い込んだ雪平鍋に牛乳を注ぎ、火にかけます。そしてココアの粉とお砂糖を混ぜて、泡だて器のようなものでカチャカチャとかき回し、温かくなったら出来上がりです。母のコーヒーに添えられた小さなクッキーももらい、しばらくの間ぼんやり過ごします。そして向かいのビルにある音楽教室に行きます。
始まる前の教室はにぎやかです。廊下では男の子も女の子も追いかけっこをしたり、かくれんぼのようなことをしたりして、元気に遊んでいます。お母さんたちもおしゃべりをしています。生徒はほとんど私と同い年です。でも、私はみんなのようにはしゃぐことが苦手で、いつもどぎまぎしていました。
授業が始まります。音符を習い、オルガンを弾いたり、鈴などの小さな楽器を鳴らしたり、歌を歌ったりします。前に出て並び、みんなで歌うこともありました。私はどうしても大きな声が出なくて、早く終わらないかなあと思うばかりでした。
帰りのバスの中では、いつも声が小さいことを母に叱られました。
「蚊の鳴くような声で」
と何度も言われました。今から思うと、その言葉の意味はわかるけれど、当時は何だろうと思っていました。
楽しかった前半の丸善までと打って変わって、家につく頃は、いつも泣きそうな、情けないような気持ちになっていました。
家に帰ると、すぐに居間の隣の小さな部屋に行き、買ってもらった本を開き、読み始めました。読めない文字があっても平気でした。そして大きな声で音読をします。楽しくていい気持ちになりました。
「だれかお友だちが来て話しているのかと思ったわ」
おばあちゃんが、私の本読みに気付いて声をかけることもありました。
母が亡くなる2年ほど前、急にピアノへのあこがれが高まりました。本当はずっと前から弾きたいと思っていたような気もします。思い切って電子ピアノを買いました。初心者向けの本を買い、たどたどしく、わくわくしながら練習しました。やがて、母にも聴かせてあげたくなり、もう1台買って、1人暮らしの母のところに置きました。
「あーちゃん、ムーンリバー、もう1回お願い」
とベッドから嬉しそうに叫ぶ母。新世界はハ長調だからと、私のピアノに合わせて音階で歌い始める母。
苦い思い出の音楽教室から半世紀ほどたって、音楽で笑い合える日がくるなんて、当時の自分と、当時の母に、どうにかして伝えられたらよかったのに、と思います。いえいえ、もし伝えられたとしても、きっと私たちは、
「うそでしょ~」
と、親子ともども声を合わせ、信じなかったような気もします。
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