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母の愛読雑誌と黒豆のこと(母と私のこと:3つめ)

 母が好きな雑誌は、『暮しの手帖』でした。子どもの頃から家にあり、私もよくながめていました。
 『暮しの手帖』には料理のページがありました。私が小学生だったころのある年末、黒豆が食卓に乗りました。甘く煮た黒々とした豆です。ぜんざいや和菓子など、あまり好きではなかったのですが、その黒豆煮は夢中になる美味しさでした。レシピの源は『暮しの手帖』でした。母曰く、さらなるアレンジを加えたそうです。一粒一粒がとても大きくて、つやつやに光り、繊細な薄皮を少し噛むと、中からやわらかく、クリーミーな豆が風味いっぱいにあらわれます。コクがある煮汁も名残惜しくて飲んでしまうほどでした。
 私と同じぐらい黒豆に感激したのが祖母でした。二人で美味しい美味しいといつも言い、時には取り合いになるほどで、早く次を作ってと母にせがんでいました。
「前の晩から水につけて、1日中、火にかけて、大仕事なんだから」
 と、料理をしない私たちに、母はあきれたように言い、それでも毎年冬になるたび作ってくれるようになりました。黒豆を煮る日は、母の気合が伝わりました。大きな鍋に落し蓋を入れ、1日かけて煮ます。蒸気の出具合を見ながら、火力の調節をします。やがてキッチンが、甘くて上品なにおいにつつまれていきます。
 私が20代で上京し、一人暮らしを始めたころ、急に自分で黒豆煮を作ってみたくなりました。今から四半世紀以上前のことです。母に作り方を教えてもらいたくて電話をすると、パソコンメールが送られてきました。タイトルは、『黒豆秘伝』、そして、
「一子相伝の煮方につき、極秘で読みなされ」
 と一行目に打ってありました。一子相伝の意味もよくわかってなかったのですが、作り方とコツが書かれてありました。私は鍋や落し蓋を買ってきて、わくわくして作りました。作る過程では何度となく母に電話し、アドバイスをもらいました。
「吹きこぼれてしまった!」
「あー、もうそれはダメだわ」
「固いんだけど?」
「明日の朝、もう一回、煮直しなさい」
 などです。たとえ上手く出来ないときでも、部屋じゅうにあの上品なにおいが満ちてくると、ほっとして、いいものに守られているような気持ちになりました。
 その後、母も上京し、行き来ができる距離になりました。そして黒豆煮の作り手はすべて私になりました。上手く出来たときは、
「美味しい! 免許皆伝」
 と、言われました。調子に乗って、友人や知り合いにも配るようになりました。きれいなガラス瓶に入れ、おしゃれなペーパーでラッピングしてプレゼントしました。評判は上々で、ホテルで料理修行をしていた知人には、
「料亭のよう」
 という誉め言葉までもらいました。
「作り方教えて」
 など、本気で聞いてくる人も一人や二人じゃなく、その都度、
「母に教わったの。何だか昔、『暮しの手帖』に載ってたみたいで…」
 とぼんやりと返事しました。実はそれが心苦しかったのです。なぜなら、母に口止めされていたからです。
「詳しい作り方は人に教えてはいけません!」
 教えちゃいけないなんて、何だかケチっぽいなあと内心思っていたのですが、何となく守ってきました。
 
 それからさらに月日が経ち、今から15年ほど前のことです。今のパートナーとお付き合いを始めたころ、お正月に黒豆煮を持っていきました。料理教室の先生もされているお母さんと、そして彼の妹も、とても感激してくれました。そしてやはり、
「どうやって作ったの」
 の質問が出ました。
「それが‥‥‥、言っちゃいけないんです」
 私がおずおずと言うと、二人は、きょとんとし、そしてすぐに笑い出しました。それにつられて、私も彼も、彼のお父さんも笑い、みんなで大笑いになりました。
 後日、母にこの話をしました。みんなに笑われたというと、
「そりゃ、笑うわよ。言っちゃいけない、なんて面白いもん!」
 とあっけらかんと楽しそうに言うのです。
「ほんとに言っちゃダメなわけ? みんな聞きたがるのに。どうして?」
「そりゃ、人と違うものを一つぐらい作れないと、カッコ付かないでしょ。あーちゃんは料理なーんにもしないんだし。いっこだけ、これは、というものを持ってなきゃ」
「なるほど……」
 やっと、納得しました。
 
 もう母に食べてもらうことはできなくなりました。でも、私がこれから先、レシピを言い淀んで、ぐずぐずしているときには、きっとそばにいて、大笑いしてくれるような気がしてきました。

==END==

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