川の柳のように
私が現代川柳と出会ってから22年後の1997年、大阪にある川柳結社の老舗の一つである「番傘川柳本社」が発行する「番傘」第86巻第4号「リレー放論、たかが川柳……されど川柳……」というコーナーに短文を載せる機会に恵まれた。ここに、その記事を再掲する。
リレー放論
たかが川柳、されど川柳 No.124
川の柳のように
生きているということは、予期せぬ出逢いがあるから面白い。考えるところがあって、家から通える範囲の大学を卒業した後、「故郷を錦にしなさい」との、恩師の教えの影響を大きく受け、長男でもあったことから、一生群馬の桐生という地で暮らす覚悟で地元の企業に就職した。転勤があっても、せいぜい県内のはずだった。ところが一つだけ例外があったのだ。それは、社内の技術部門のうちから一人が、三年交替くらいで、兵庫県の姫路市内にある関連会社の研究所へ研修目的の出向をする慣例だ。そして思いがけず、入社早々の私がその一人に抜擢?されたのだ。以前から、一生のうち一度は関西で暮らしてみたいという、ぼんやりとした希望はあったのだが、その実現がこんなにも早く転がり込んでくるとは思いもよらなかった。
初めて姫路の地を踏んだのは昭和五十年の五月だった。仕事をまあまあにこなしながら夏が過ぎ、コンサートなどにも出かけるゆとりが出てきた。楽しみにしていたオペラを見に出かけた会場の入り口で、市内の混声合唱団の団員募集のチラシを手にした。何か楽しみでも持とう、また、仕事以外の面で知人が増えれば人生が豊かになるだろうと思い、さっそく入団した。あとで聞いた話では、チラシを見ただけで入ってくる人は滅多にいないとか。私はかなり珍しい人間の一人だったらしい。それはともかく、入団以降、週に一度の練習が楽しくてたまらず、生活全体が生き生きしてきた。メンバーには楽しい連中が大勢いて、いつも笑わせてくれた。「芸は身を助ける」とはまさにその通りで、学生時代から始めた合唱の趣味が、こんなところで役立つとは思ってもみなかった。
そのあとの展開がまた予想外だった。団のメンバーの一人に、容姿がかなり魅力的で、感性がちょっと風変わりな女性がいた。練習が終わってから、気の合う仲間数人で喫茶店に寄ったりしたが、彼女も私もその常連だった。いろいろ話をしているうちに、彼女が川柳を趣味にしていることが分かった。はじめ川柳と聞いた時、まだ二十代の女性が、何で川柳なのかと不思議でならなかったが、彼女が関わっていたのは、私が知っていた古川柳や時事川柳ではなく、革新川柳、現代川柳、さらにこまかく区分すれば詩性川柳と呼ばれているものだったのだ。初めて見せてもらった川柳雑誌が「川柳展望」の5号だった。当時の時実新子主宰の句はもちろんのこと、会員各氏の感性豊かな作品に度肝を抜かれた時の感動は、今でも新鮮によみがえってくる。
そして単なる戯れのつもりで句を作り始めたのが昭和五十一年の初夏だった。会社での仕事の合間にひょっと出来たのが「永劫の慈悲に疲れて仏死ぬ」だった。確かこれが第一作だったと思う。続いて「橋を渡っていやな自分を捨てに行く」など。今考えてみると、暗いイメージの句が多かったのに驚く。これらの句は、当時の楽しい私生活と、単調な会社での仕事のギャップを埋めようともがく、心の中の動きから出来たのだと思う。合唱団活動や、気が置けない仲間との語らいが魅力的であればあるほど、仕事への拘束がたまらなく窮屈に感じられ始めたのはこの頃だ。
いくつか出来た句を携えて、彼女と一緒に時実新子さんの自宅を初めて訪れたのは夏の盛りだった。五号に掲載されていた「春はさまざまにののしる水の音 新子」についての私の賛辞をしばらく話したあと、自作の句があると言ったら、さっそく書いて欲しいと言われ、その辺にあった紙に十句ほど走り書きしたら、新子さんはテキパキと○×をつけながら懇切丁寧な批評をしてくれた。さっそく次の号から「川柳展望」の誌友として参加することに話が決まり、あれよあれよと言う間に川柳の仲間入りをしたのである。翌年からは月一回の「姫路句会」も発足した。大阪から「川柳展望」編集長(現在は発行人兼)の天根夢草さんの参加もあった。初心者の私には、かなりレベルの高い贅沢な会だった。
そんなこんなで、姫路赴任から約束の三年が過ぎ、元の会社に戻る日が来た。同じ所に三年も住むと、すっかりその土地に慣れてしまう。街の佇まいにも馴染み、親しい友人もたくさん出来、そこを去りがたい気持ちが湧いてしまった。彼女の存在が、その気持ちを倍加させた。思い起こせば、姫路に対するそんな気持ちは二年目くらいからあった。期限付きの赴任の宿命だろう。私が作った川柳に内在する暗い死のイメージはそこから発していたに違いない。住み慣れた土地を去らなくてはならないという現実と「死」が重なり合って、心の中で死のことばかりを考えていたように思う。それで後日、私のことを作品だけから知っている人に句会などで会った時、必ずと言ってよいほど、「想像していたより若いので驚きました」と言われた。これは、句だけでなく、評論なども書いていたので、それらを総合しての想像だったのだろう。ただ、今思えば、二十代前半という若さだったからこそ、純粋に「死」に向き合ったのだと思う。それは多分に観念的ではあったが、真実味にあふれていた。
その後、その会社には七年勤めた。姫路でのキラキラとした日々がなかなか忘れられず苦労した。仕事上のいくつかの悩みや迷いがあって、その度にはっきりしてきたのは、私は組織に向いていない人間だということだった。連帯責任という要素が多い組織の中で、私の心は萎縮したり自滅したりしてしまうのだ。そんな思いが頂点に達した日、私は退職を決めた。現在は、学習塾を営みながら、非常勤で専門学校の講師や心理カウンセラーをしている。どれも組織に縛られないから極めて快適である。もちろんそれぞれに責任のある仕事なので苦労がないというわけではないが、全てを自分で決められるのは何とも気が楽だ。そしてここ数年、句はあまり作っていないが、時々、作品鑑賞や評論を依頼され、川柳との関係はそんな形で続いている。
次は、番傘の同人であり、私とは川柳展望を通してお付き合いのある、浜松の飯尾こまきさんにバトンを渡します。
(番傘川柳本社「番傘」・第86巻第4号・1997.4.1発行)