危機感の魅力
「川柳展望」の時実新子主宰が、その第8号で、「六つの気球」と題する問題提起をした。危機感・訴求力・意味性・意外性・あそびのこころ・一句一姿、の6つである。
発行後、たまたま新子主宰の自宅を訪ねて雑談をする中で、「六つの気球」にある「危機感」について私見を語ると、それを次号に執筆するよう新子主宰から頼まれた。以下の文章がそれである。
川柳展望・第9号 テーマ特集
危機感の魅力
「神よ、なぜわたしはこんなにもうつろいやすいのですか」と美が尋ねた。「うつろいやすいものだけを美しくしたのだ」とジュピターは答えた。(ゲーテ)
これはわたしが好きな格言の一つである。何らかの芸術に接する時、良きにつけ悪しきにつけ、わたしはこの言葉を思い出す。
「六つの気球」の中で述べられていた「危機感」は主として生命の危機について触れていたが、この小論の中でわたしはその根元的な危機をも含めて、もう少し広い意味で「危機」という言葉が持つイメージと川柳とを重ねてみたいと思う。
まず、どうしてわたしたちが川柳を作るか、と問うた場合、その理由の一つは川柳の中に危機感の先取り精神があるからではないだろうか。これを言い換えれば、生きてゆく上での危さが直接身に降りかかる前の予感の段階で句として経験することである。そして内部にあった感情を独立した作品の形で自分から切り放すことによって、耐えきれぬ危機感から逃れる。つまり本当に死ぬ前に句の中で死んでしまうのである。この開放される時の快感が少なくともわたしにとっては川柳の醍醐味だと感じている。
わたしが句を作る動機は、そのほとんどが、うつりかわってゆく自分に対する恐れと期待である。幸福の絶項にある時の危うさ、失望の底にある時にでもほのかに見えてきた希望へ向うそわそわした気持ち、それらを感じる時、わたしは興奮してじっとしていられなくなる。だからと言って檻の中の飢えたライオンみたいに部屋の中を行ったり来たりするわけにも行かないから、心に浮かぶままを書きつける。どうもわたしには、明日になったら変わっているかも知れない感情を川柳に残しておいて、後になってそれを客観的に楽しむ趣味があるようだ。
ここでもう少し危機感について掘り下げてみよう。今さら言うまでもなくあらゆる生命はやがては死ななければならない危機をいやがうえにも持っている。また、とりたてて死とまでは言わないまでも、常にうつりかわってゆく宿命を背負っている。だから、この「うつろいやすさ」を危機と呼ぶならば、それを意識し感じることが文字どおり危機感なのだ。それを強く感じているか否かは人それぞれに違っているが、わたしたちのように日常文芸に親しんでいる者は、幸か不幸か、その危機を人一倍問題にしたがる人種なのだろう。
川柳を見ていると、時々(主観的にはしばしば)「死」とか「柩」とか、動詞では「殺す」「消える」などの否定的な意味を持つ言葉を見うけるが、それまでして川柳作家は死にたい人が多いのだろうか、と苦笑いを隠せない。したがって、作品を川柳に全く関係のない人に見せた場合、彼等が(古)川柳に抱いていた期待感とはそれこそ対称的な「抹香臭い川柳」という印象を与えてしまうことが多い。
これは誤解なのであるが、あまりにも危機感を直に表現しすぎた場合、こういう発言を招くことはしかたがない。しかし川柳を少しでも知ってくると、反対にこうした危機感あふれた作品に強烈な感動を受ける事が多くなるのは皮肉なものである。
そうは言うものの、川柳はこの段階で止まっていてはならない、と反省する。要は作家自身の内で「生きること」について深く消化された上で出来た作品であるならば、必ずしも危機とイコールの言葉を使わずともおのずから危機感をはらんでいるに違いない。なんでもなさそうな美しい川柳から自然と湧き出る危機感こそ奥が深いのであり、畏ろしいものなのだ。
ところで、こうしてできた川柳自体、また違った意味での危うさでいっぱいなのに驚く。
わたしはこれまで色々な芸術に出会ってきたが、良くできた川柳は、それらの中で芸術らしさを存分に発揮している文芸だと思う。それは川柳という形式自体、「危うさ」「きわどさ」そのものだからである。言うまでもなく、十七音から成る川柳は、言葉数が少ないために一つ誤ったらこの上なく無味乾操なものに陥る危うさを秘めている。その危険性を承知したうえでなお良い作品を求め続ける様は細い綱の上で、はらはらする観客を見下しながら何くわぬ顔で乱舞する曲芸師のしたたかさにも他ている。
小説ならば数十ページを費して伝える感情を、時に川柳はたった十七音で言い得てしまう。この恐ろしさと不思議さといったら他にあまり見当らない。この絶妙な技は一か八かのきわどいところで生きている人間に与えられた超能力なのに違いない、と思う。
いつの間にか川柳の魅力に漬かりすぎて、自画自賛のような形になってしまったが、日頃川柳を作っている時にはとりたてて意識していない事でも、いざ深く考えてみるとずい分むずかしい作業を自然にやっているものだとつくづく感心する。そこで油断したら実作を忘れて川柳哲学の虜になりそうなのでこの辺で止めなくてはならない。
結局、ニュートンの法則を知らなくても月の美しさを楽しめるように、むずかしい理論をこねり回さなくても良い川柳は出来ると思うのである。ただ着実な川柳を作るためには、必要最少限自分の作句思想を持っていてもむだではないだろう。その上で、あらゆる意味の危機感をパッケージにしたような川柳が爆発する瞬間のピリッとした興奮を楽しみたがら、うつろいやすさゆえの美を感じ、また自分自身で良い作品を創ってゆこうと思う。
(川柳展望・第9号、1977.5.1)