「現代川柳」との出会いと今
子どもの頃から、考えることと文章を書くことが好きで、読書感想文や懸賞論文などで入選することも少なくなかった。中学3年の頃から読書も好きになった。そんなことから、将来は作家になりたいという夢をもっていた時期もあった。しかし、大学卒業を前にして、まずは目先の現実に目を向けることを優先して、地元に本社がある大手電機メーカーに就職した。もともと科学、特に電気や機械にも興味があったため、大学入学時に工学部を選んだことも理由の一つである。また、作家という職種は、なりたい気持ちが持続する限り、いつからでもなれるという考えもあったからである。
ところが、入社後間もなく、思いもよらないことが起こった。2〜3年の任期で、大手電機会社の姫路製作所への出向を命じられたのである。
姫路に赴任してからしばらくの間は、会社と独身寮を往復するだけの日々が続き、寮の自室では、仕事と関係のない本を読んだり、旅行の記録やエッセイ、体験談に近い小説もどきを書いたりしていた。しかし、依頼された原稿以外は未完で終わることが多かった。
その後、あるきっかけで、市内で活動をしている市民合唱団に入り、団員の一人としてコーラスを楽しみながら何度かステージにも立った。
合唱団のメンバーの一人に、現代川柳に関わっている人がいた。ある日、私が文学に興味をもっていることを話すと、当時、姫路に住んでいた時実新子(敬称略)が、昭和50年(私が赴任した年)に創刊したばかりの川柳雑誌「川柳展望」の最新号(第5号)を貸してくれた。そこに掲載されている川柳作品には、私が「川柳」という文芸に対して抱いていたそれまでのイメージを根底から覆すような新鮮なエネルギーが満ち溢れていた。これが、私と現代川柳との最初の出会いである。
ここで、主宰者である時実新子の川柳作品の中から、いくつかを紹介する。
いちめんの椿の中に椿落つ 時実新子
鳴く虫のいつから鳴かぬ答えかな 時実新子
出てみれば雨 手に受けて春の雨 時実新子
うなずいて短き愛は始まりぬ 時実新子
皆様は発車のベルで発車する 時実新子
脱線の叶わぬ汽車に似て走る 時実新子
箸重ねて洗う縁しをふと思う 時実新子
月のかさめぐり逢わねばただの暈 時実新子
よく笑う妻に戻って以来 冬 時実新子
ほろほろとあれは鳩かな涙かな 時実新子
春はさまざまにののしる水の音 時実新子
1年に4回発行される季刊誌「川柳展望」には、多くの会員の作品が掲載されている。それらの句を読んで、にわかに自分でも句を作りたくなった。そして、第7号で、私の句がデビューした。会員以外の読者も含めた応募作品の中から時実新子が選ぶ「火の木集」というコーナーの筆頭であった。
永劫の慈悲に疲れて仏死ぬ 浅野良雄
はないちもんめ嫌われた子は花になる 浅野良雄
嘘をつかぬ鏡はいつか砕かれる 浅野良雄
恥さらす私の指の彼岸花 浅野良雄
あなたとわかちあえるのは時の鐘だけ 浅野良雄
その後、主宰者の薦めで川柳展望の会員になり、市内で開かれる定例の句会にも参加するようになった。
そして、3年の出向期間を終えて桐生に戻ってからも、20年ほど投句は続けたが、考えるところがあって電機メーカーを退職後、講師や心理カウンセリングが仕事の中心になるにつれて、特に〈対話法〉を考案してからは、次第に川柳から遠ざかっていった。ただ、その後も「川柳展望」の購読だけは続けており、現在に至っている。
ところが、ごく最近、いくつかの理由から、再び川柳に深く関わりたいという気持ちが湧いてきた。
理由というのは、長年勤務した学校カウンセラーを、昨年、退いたため自由な時間が増えたこと。30年にわたる〈対話法〉の普及活動に、ある程度の区切りがついたため、活動の方向転換を考え始めたこと。川柳と出会った青年時代とは異なる目的と方法で、再度、川柳に向き合いたいと思ったことなどである。
そして、以前の関わり方との一番の違いは、自らの作品を作るのではなく、川柳を鑑賞するだけの立場に徹することである。自分の作品を発表しないで、他の人が作った句を鑑賞するだけなら、他人からの評価を気にしないで、純粋に川柳と向き合えるのではないかと楽しみにしている。
ところで、鑑賞といえば、10年ほど前に「対話型アート鑑賞」というものに出会い、その普及活動をしている人たちとも交流してきた。一般に、対話型アート鑑賞とは、美術館に展示されているアート作品を、複数の人たちで「対話」をしながら鑑賞する方法のことで、比較的新しい鑑賞法である。私の新しい川柳との関わりでは、この方法も取り入れたいと考えている。つまり「対話型川柳鑑賞」である。