天皇系図で学ぶ高校日本史

天皇系図で学ぶ高校日本史

高校日本史の教科書は時系列になっていません。また、系図は簡単なものが収録されているだけです。そこで、わかりやすい系図を作り、それに沿って時系列で日本史を説明していく動画を作りました。

説明を系図という幹に絞り枝葉末節を省略すると、わかりやすい日本史になります。天皇系図はすべての時代を作成、平安時代は藤原氏の系図、鎌倉時代は将軍の系図を作り、天皇系図に関連付けて神武天皇から後醍醐天皇までを説明しています。室町時代以降は「系図で学ぶ高校日本史」に続きます。

初代の神武天皇から15代の神功皇后まで。神功皇后は明治時代に歴代天皇から外されましたが、日本書紀でも神皇正統記でも天皇です。(15)とあるのはそういう理由で、現在は神功皇后の子、応神天皇が15代とされています。神功皇后・応神天皇母子は武芸の神として武家の信仰を集めました。

中国の南北朝時代、南朝の宋書倭国伝に倭の五王が登場します。讃珍済興武は、応神天皇から雄略天皇に比定されています。なかでも武=雄略天皇は、稲荷山古墳出土大刀の象嵌にも記されており、ヤマト勢力の拡大を示すものと考えられています。25代武烈天皇までを扱います。

25代武烈天皇は後継者に恵まれなかったため、大連大伴金村は越前から継体天皇を迎えます。継体天皇は応神天皇五世の孫とされていますが、肯定論・否定論があり、また王朝の交替とみるかについても議論が続いています。継体天皇以降の天皇は実在が定説になっています。

蘇我氏が大王家と婚姻関係を深めた時代です。蘇我氏は物部氏を滅亡させ、崇峻天皇の後、女帝推古天皇を擁立します。大臣蘇我馬子は推古天皇とともに政治を主導し、聖徳太子を皇位継承候補として上宮王家を設立しました。

日本書紀は第一回遣隋使派遣を607年としていますが、中国の隋書には600年の遣隋使が記録されています。600年と607年の間に、日本は小墾田宮を造営し、冠位十二階・憲法十七条を制定しました。

推古天皇・蘇我馬子・聖徳太子が世を去り、舒明天皇、続いて皇極天皇が即位しました。隋に代わった唐が勢力を拡大するなか、政権をめぐる争いが激化、645年の乙巳の変で蘇我宗家が滅亡します。

乙巳の変で蘇我宗家が滅亡し、孝徳天皇は大化改新の着手します。しかし、孝徳天皇は中大兄皇子と対立し、皇極天皇が重祚して斉明天皇になります。東アジアでは、隋・新羅と高句麗・百済・倭が対立していました。

天智天皇は大友皇子に譲位しますが、大海人皇子は東国の兵を動員して壬申の乱が勃発しました。勝利した大海人皇子は即位して天武天皇に、戦いで皇位を得た天皇として強大な権力を握ります。

天武天皇天智天皇は皇位を同世代継承から大友皇子への直系継承に変更しようとします。しかし、壬申の乱で大海人皇子が勝利して天武天皇に。天武・持統も直系継承をめざして、朝廷内部の合意形成を図りますが。

天武・持統の男子直系は草壁皇子・文武天皇・聖武天皇です。直系に皇位を継承するため、持統・元明・元正と女帝が輩出しました。女帝は上位した後も太上天皇(上皇)として権力を保持し、若い天皇を支援しました。

称徳天皇が亡くなると、井上内親王の夫が即位して光仁天皇になります。桓武天皇は平安京に遷都、天智系の都造りに取り組みますが、早良親王等の怨霊に悩まされていました。

平城上皇が起こした薬子の変を鎮圧し、嵯峨天皇政権は安定します。嵯峨上皇は淳和天皇の系統を優遇しますが、仁明天皇と藤原北家は協力して承和の変を起こし、藤原北家が嵯峨系天皇の外戚の地位を確保しました。

藤原北家は外戚関係の構築に成功し、藤原良房が清和天皇の摂政、藤原基経が光孝天皇の関白になります。菅原道真の左遷・安和の変を経て他氏排斥は一段落、摂関政治が確立して藤原氏内部の競争が始まりました。

武士は正平天慶の乱を鎮圧した平貞盛・源経基から始まります。清和源氏は摂関家に仕えて勢力を拡大し、源頼信・頼義の時代に東国に進出しました。桓武平氏の主流となった伊勢平氏は院の武力として成長していきます。

冷泉天皇は奇行のため円融天皇に代わりました。円融天皇は藤原兼通と藤原兼家の対立に悩まされ、花山天皇に譲位します。花山天皇が出家して兼家の外孫の一条天皇が即位、兼家は摂政に就任しました。

藤原道長は一条天皇に彰子を入内させ、後一条天皇の外祖父として権力を確立します。三后を立て「この世をば、我が世とぞ思ふ・・」と詠んだ藤原道長の時代の皇位継承を追います。

後三条天皇と禎子内親王は実仁親王を白河天皇の皇太弟にします。実仁親王が亡くなると、白河天皇は子供の堀河天皇に譲位しました。親政を行った堀河天皇が亡くなり鳥羽天皇が即位すると、白河上皇の院政が始まります。

鳥羽上皇の時代に荘園が急増しました。1137年、美福門院は祖父の藤原顕季から受け継いだ久富保の周囲を取り込み領域型荘園「王家領矢野荘」が成立します。矢野荘の史料は東寺百合文書の一部として伝わっています。

近衛天皇が崩御すると後継者をめぐる争いが始まり、後白河天皇が即位しました。1156年、鳥羽法皇が亡くなると、崇徳上皇と藤原頼長は兵を動員、後白河天皇方には平清盛・源義朝が結集して、保元の乱が起こります。

保元の乱では、後白河天皇方に源義朝と平清盛、崇徳上皇方に源為義と平忠正が参集しました。武士たちが天皇方・上皇方を選択した理由を、河内源氏・伊勢平氏の成り立ちと保元の乱発生直前の状況から解説します。

平治の乱後、二条天皇の親政が始まり平清盛はこれを支持します。1170年代になると後白河院政が復活、京都の後白河と福原の平清盛が並立しました。しかし、平重盛らが相次いで亡くなると平氏政権の動揺が始まります。

安徳天皇が平家とともに西国に去り、後鳥羽天皇が即位しました。京都の政治は後白河上皇、続いて摂政九条兼実に。源頼朝は九条兼実、一条能保と連携しますが、大姫の入内工作によって九条兼実との関係が動揺します。

源頼朝・九条兼実など有力者が相次いで他界し、後鳥羽政権が確立します。一方、幕府では頼家暗殺など内紛が続いたすえに三代将軍実朝も暗殺されてしまいました。幕府は混乱し朝廷も対応に苦慮することになります。

後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を発し承久の乱が始まります。後鳥羽上皇が目指していたものは何か、京都の公家や武士はどのように行動したのか、承久の乱後の京都政界はどのようになったのかを説明します。

四条天皇が亡くなり、後鳥羽系の皇子から後継者を選択することになります。候補者は、順徳の孫にあたる忠成王と土御門の孫にあたる邦仁王。1242年、北条泰時の指示を受けて、後嵯峨天皇が即位しました。

鎌倉幕府の将軍は源氏将軍・摂家将軍・親王将軍で9人になります。初期を除いて将軍は形式的な存在にすぎず、幕府は有力御家人によって運営されていました。その中心になったのが、北条得宗家です。

治天であった後嵯峨上皇が後継者の決定を幕府に一任して亡くなった結果、後深草上皇と亀山天皇の兄弟に対立が生じます。持明院統と大覚寺統は治天をめぐって幕府を巻き込んだ争いを続けました。

後宇多上皇は邦良親王へのつなぎとして後醍醐を皇太子にします。大覚寺統の本線は後二条天皇から邦良親王でした。後醍醐天皇は直系に皇位を継承するため、両統及び幕府の合意を覆す「当今御謀反」に立ち上がります。

1333年、建武の新政の政権は護良親王・足利尊氏・北畠親房など上層の人々と文観・楠木正成など新興の人々で構成されていました。やがて、後醍醐天皇と足利尊氏が対立、後醍醐天皇は吉野に去り南北朝の時代が始まります。

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