『新勅撰和歌集』も面白い
新勅撰和歌集はことに評判が悪い。
俊成卿女が「定家撰でなければ見たくもない」と言い放ったことで有名。
この勅撰和歌集は承久の乱後に編纂されたので、流刑に処された歌人、すなわち後鳥羽院・土御門院・順徳院の三上皇が削除されてしまい、代わりに武家の和歌が入集することになった。
「武士」→「ものゝふ」→「ものゝふのやそ宇治川」
にちなんで、別名『宇治河集』とあだ名されたという。
ということで、私も食わず嫌いだったのだけど、新勅撰集の和歌をしばしば見かけることがあったので興味がわいてのぞいてみた。
春上巻頭
この歌集はまず春歌上巻頭で驚くことになる。
あらたまの年はかはらで立つ春は霞ばかりぞ空に知りける(御製)
後堀河院御製。
勅撰集の春上巻頭が御製(天皇作の和歌)であることは後にも先にもこの集だけとか。
後堀河院は残念ながら短命であったこともあり、新勅撰集以外の勅撰集にとられた御製もなく、和歌における御事跡はほとんどない。
にも関わらず先例を破って春上巻頭に御製が据えられた。定家の後堀河院への敬愛の深さがうかがわれる。
どこかで見た天香具山
続いて、四番・五番に驚きの歌が!
四、冬過ぎて春は来ぬらし朝日さす春日の山に霞たなびく(よみ人しらず)
五、久方のあまの香具山この夕べ霞たなびく春たつらしも(よみ人しらず)
四番の上二句は
春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天香山(新古今・夏・持統天皇)
だし、それによって天香具山につながるし、下の句は
ほのぼのと春こそ空に来にけらし天香山霞たなびく(新古今・春・後鳥羽院)
に近い。
また、新古今の後鳥羽院御製「ほのぼのと」の本歌が新勅撰集の五番歌である。
つまり、この四番・五番歌からは後鳥羽院の匂いがプンプンする!
もしかしたらこういう仕掛けが他にもあるんじゃ?と期待して読み進めたけど、わたしには見つけられなかった。無念。
道助法親王
もう一つ驚いたのは、後鳥羽院の皇子道助法親王のお歌が入集していること。
道助法親王は源実朝の室の姉、坊門局が産んだ皇子で、父院出家の際には戒師を務めたお方。
後鳥羽院の皇子は土御門院、順徳院のほか、雅成親王と頼仁親王も配流された。雅成親王は後の勅撰集に入集しているが、新勅撰集には入っていない。
だけど道助法親王は出家の身なので配流されず、新勅撰集からも排除されなかったのか。
新勅撰集の道助法親王十一首
忘れじな又来む春をまつの戸にあけくれなれし花の面影
花散りてかたみ恋しき我が宿にゆかりの色の池の藤波
白露の玉江の葦のよひよひに秋風近くゆく蛍かな
荻の葉に風の音せぬ秋もあらば涙のほかに月は見てまし
我が宿の菊の朝露色も惜しこぼさでにほへ庭の秋風
木枯しの紅葉吹きしく庭の面に露も残らぬ秋の色かな
とゞめばや流れてはやき年なみのよどまぬ水はしがらみもなし
春日野にまだ萌えやらぬ若草の煙みじかき荻のやけ原
この里は竹の葉わけてもる月の昔の世々のかげを恋ふらし
はつせ山嵐のみちの遠ければいたりいたらぬ鐘の音かな
これのみとゝもなふ影も小夜ふけて光ぞうすき窓のともし火
なんとなく、発想や言葉の選び方に父院の面影を感じるのは気のせいかな‥‥?
その他
新勅撰集の有名歌と個人的に好きな歌等気になる歌。
風そよぐ楢の小川の夕暮は禊ぞ夏のしるしなりける(夏・家隆)
秋こそあれ人は尋ねぬ松の戸をいくへも閉ぢよ蔦のもみぢ葉(秋下・式子内親王)
うれしさを昔は袖につゝみけり今宵は身にもあまりぬるかな(賀・よみ人しらず)
菊の露わかゆばかりに袖ふれて花の主に千世はゆづらん(賀・紫式部)
苦しくも降りくる雨か三輪の崎佐野の渡りに家もあらなくに(羈旅・よみ人しらず)
世の中は常にもがもな渚漕ぐ海人の小舟の綱手かなしも(羈旅・実朝)
高くともなにゝかはせん呉竹のひと夜ふた夜のあだのふしをば(恋二・修理)
見し人の寝たくれ髪の面影に涙かきやる小夜の手枕(恋三・良経)
来ぬ人をまつほの浦の夕凪にやくや藻塩の身もこがれつゝ(恋三・定家)
君待つとわが恋ひをればわが宿のすだれうごかし秋風ぞ吹く(恋四・額田王)
夜もすがら水鶏よりけになくなくぞ真木の戸口に叩きわびぬる(恋五・道長)
返し
たゞならじとばかりたゝく水鶏ゆゑあけてはいかにくやしからまし(恋五・紫式部)
花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり(雑一・公経)
山はさけ海はあせなん世なりとも君にふた心わがあらめやも(雑二・実朝)
いづこにもふりさけいまや三笠山もろこしかけていづる月かげ(雑四・家長)
道長と紫式部の水鶏の歌は、『紫式部日記』のこの贈答歌のある記事によって、二人の関係があやしまれているとかなんとか。真偽不明ながらも興味深い。
ということで、私もこの選集に不満がないわけではないけど、それなりに楽しく読めました☆
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