固定電話がちゃ
『固定電話がちゃ』 浅野直人
家族が寝静まった深夜。目覚まし時計を確認してから、そっと部屋のドアを開けた。電気も点けず、音を立てないように足裏で板の感触をを探るように一段一段、階段を降りてゆく。一階の床に降り立ったところで一息ついた。そのまま廊下を歩き固定電話に手を伸ばす。抱えるように電話機全体を持ち上げ、電話機から伸びるコードを引きながら居間のドアを開ける。
ギー。油の切れたドアの蝶番が悲鳴をあげる。そう言えば、前もそうだった。音が鳴らないように油を差さねば。そう思ったのだけど、そのまま放置していた。念のため家族が起き出していないか耳を澄ませる。大丈夫そうだ。そのま忍足で居間に入った。
「ふぅー」
ため息と共に束の間の安堵が広がる。居間のドアを閉めるも、電話のコードの太さ分の隙間が残る。
やはり、電気は点けずソファーの上に座り込んだ。もしも、家族が降りてきてもソファーの上で寝たふりをする。電話機が居間に引き込まれているという違和は緊急事態下では捨て置くしかない。部屋から抱えてきた目覚まし時計を見れば三分前だった。なんだろう、この背徳感。そして、緊張と喜びのマリアージュ。ぼんやりと光る目覚まし時計の長針がコツンと分を進め、その振動が心臓に伝わり心を揺らした。
目覚まし時計が約束の時間を告げる。受話器を左手に持ち、受話器が押し下げるスイッチを右手の人差し指で押し込んでいる。
「なんで」
目覚まし時計の長針が約束の時間から一分の経過を表明していた。
「もう、遅刻だぞ」
心の声が漏れ出した。
その時、体に電気が走った気がした。続けて十六部音符より短いベルの音が耳に届くや、右手の人差し指を素早く解放した。
「もしもし」
「もしもし」
聞こえてきた甘い声が脳に届き、身悶え心が溶け出した。
☆☆☆☆☆
今では固定電話は携帯電話に取って変わられ、その存在価値の低下は著しい限りです。固定電話にかかってくるのは調査や勧誘、詐欺といった不要なものばかり。それでも、携帯を持たない高齢の親族や災害などの万一の時のためにという理由で解約せずに残されている方もいるかと思います。
うちもそうでしたが、家の片付けのついでに固定電話の解約を検討することに。時は流れ、固定電話だけに電話をかけてくるような親族はほぼいなくなり、よく考えれば、災害時に固定電話が活躍する場面がそうそうくるとは思えず、早々に不要という結論に達しました。
一つだけ悩んだのはなんとなく自分の携帯電話の番号を教えたくない相手の存在。根拠はないけど通販業者からとか名簿業者に携帯番号が流れてしまうのがちょっと心配で、そんな時は固定電話番号を使っていたのだけど。まあ、どうしても必要なら使い捨て用の別の携帯番号を持てばいいって話で、固定電話とはまた別の話。
というわけで、ついに、長年慣れ親しみ、脳に刻み込まれた番号を持つ固定電話を解約しました。しばらく経ちましたが、今のところなんの問題もありません。電話が繋がらず問題があった人もいたかもしれませんが、こちらに問題がなければ良しとしましょう。
不要となった電話機も処分しました。電話機が載っていた台もなくなり、しばらくはその空いたスペースに郷愁が漂っていましたが、それも時間と共に慣れてゆくのでしょう。それでも、ふと固定電話の存在を思い出すと、固定電話が繋いだ家族のエピソードが脳裏に浮かびます。
固定電話にはドラマがありました。家族という集まりの中にポツンと置かれてベルを鳴らし、家族にまつわる世界の変化を連れてくる。嬉しいお知らせ。悲しいお知らせ。無駄話し。電話を通して伝えられる様々なお知らせが家族の心を揺らし、泣いたり、笑ったり、家族を人生というドラマの中に引き込んでゆく。冒頭の物語のようにコードに繋がれ、自由に移動ができないからこそ生まれるドラマもあったはず。そう考えると、固定電話の不在は家族の形にも影響するような気がします。
母親の長電話。テレビを見ながらうるさいなと思いながらもなんとなく漏れ聞こえる会話。そこから漏れ伝わる出来事や母親の人柄。話の中に自分が登場すれば聞き耳を立て、特に興味もないけど親戚の動向なんかも耳に入る。でも、家族それぞれが携帯電話を持つようになり、そんな家族の無駄話も耳に入る機会が減る。携帯電話によって個別化したコミュニケーションは家族の知られざる部分を知らないままにしてしまうこともあるのかもしれません。
固定電話を解約した記念に何かを書こうと思ったのだけど、解約した後も思ったほど引きずるものはなく、さらりと記憶の中から消え去ろうとしています。まあ、不要として解約したのだから当たり前といえば当たり前ですね。強いて言えば、不在の時は電話に出れないが転じて、出なくても不審とは思われにくいという固定電話の心理的距離感が懐かしい。あと、電話機本体と受話器を繋ぐ螺旋を描くカールコードについ指を絡めてしまう不思議な引力のことは決して忘れません。最後に一つだけ、通話の終わりにがちゃという冷ややかな音が聞こえるのは固定電話だけの醍醐味。
ありがとう、固定電話。
そして、さようなら
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