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死にたいって感情は今を生きているから

noteで色々な人の記事を見ていると、

「生きている意味が無い」とか

「早く消えてしまいたい」とか

そんな事を書いている人が結構いる事に気付いた。

生きたいと願っても生きる事が出来なかった人からすれば、死にたいなんて言葉は罰が当たるぐらいの言葉なのだと思う。


でも意味が無いとか消えてしまいたいという気持ち、その気持ちも分からなくはない。

私だってこの人生をどうやってこれから進めていくのかを迷っている。

子どもの頃から特に何か夢があった訳ではなかったので、何か将来の為になるような事をしてこなかった。それは今となっては後悔している。

だけど子どもの頃から何かに対して積極的に興味を示し、それに没頭出来るほど恵まれている人ばかりでもないし、興味を示したものが将来役に立つかだって分からない。

若い時でなければ出来ない事も多く存在するのは確かだ。

だがそれと反対に年を重ねたからこそ分かる事や出来る事も多くあるだろう。


noteやSNSで自分の想いを書くことが出来るようになったのは、マイナスの感情であったとしても良い事だと私は想っている。

自分の心の中では整理出来ない事をこの場所を通じて整理する事も出来る。

衝動的・永続的に破滅願望が生まれてくるのはそれだけ人間が高度な生き物である反面、繊細で傷つきやすい生き物であるからなのだと思う。

どんなにこの世界が変わったとしても、破滅願望・失墜・絶望・死への望み、その感情が無くなる事は無いと思う。

そのマイナスの感情が湧き出てくる理由。

それは今を生きているからだと私は想う。

生きているからこそマイナス思考に囚われたり、生きている意味すら分からなくなって死というものを考えるのだと。


死への憧れがあっても、ふと我に返る事もあるのが人間。

未曽有の災害もそうだが、このコロナ禍もそうで身近に死というものは常につきまとっている。

誰かが死ぬその姿を目の当たりにした時、自分が望んでいたはずの死すらも恐怖に感じる事だってある。


恵まれているからとか苦しいからとか、それは死を選ぶのにあまり関係が無いような気がする。

他人から見たらどう見ても幸せそうで恵まれている人であっても、生きている意味を見いだせずに死を選んでしまう人もいる。

人より何倍も苦労して他人に誹謗中傷をされ続ける人生であったとしても、最後まで生き抜いている人も多く存在する。

生きる意味の正解なんて誰も知らないし正解の道筋がある訳でもない。


どんなに変な事や理解されがたい事でも、それが生きる意味に繋がっていくのならそれも人生の1つとして面白いのだとさえ思う。

私みたいに物書きでもない、自分の想ったことをただ好きに書いているゲイだっている。

この記事だって意味があるかどうか、私には分からない。

そこら辺にあるラクガキと同じだろうと自分では思っている。

それでも私にとっては書くことに意味があると思って書き続けている。


人のマネをするのだけが人生ではないから、自分なりのおかしな意味探しをする人生もまた人と違って良いなと感じる。

死を考えることが出来るのは生きているから。

意味なんてあっても無くても良い。

生きている中で意味を後付けしていけば良いのだから。

たとえば

「今日も死にたいって思ったなぁ」と思ったとして

それを振り返るのだって生きているからこそ意味がある。


死にたいと思っているあなたが生きていること自体に意味がある。

どう喚いたって死ぬときはそのうち来るから、それまではしぶとく生きてみない?

私も私なりにいい加減に生きてみるから。

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