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壊れた共感性と私刑

ここ数日とある野球選手の話でツイッターは盛り上がっている。
LINEを通じて行われた会話やその顛末を事細かく週刊誌が報じ、その選手がとってきた行動や言動に対して非難の声が多く上がっている。

僕自身もツイッターで僕なりの想いをツイートした。

僕たちは何故この選手の記事に対してこれほどまでに反応しているのだろうかと僕は考えてみた。

それは壊れた共感性から来る感情と私刑が関係しているように感じた。

今回報じられた話は事実だと関係者は認めている。
それでもその話は過去の話であり済んだ事としているのが現状。
僕たちからすれば当事者ではないので他人が起こした騒動に何かしら口を出す必要など本来は無いのだろう。

ただ僕たちは赤の他人の事なのにこれだけ非難をしている。
それはきっと心の何処かに同じような事を繰り返させない、誰かが再び同じような目に遭わないようにという強い願いや想いが壊れた共感性を生み出し、これらの行動として現れていると僕は考える。

別な視点から見れば現代は異常なほどに共感性が高い社会へ変わってきたように感じる。これまでの社会は同じ想いをしていてもその想いを表現し、共有する場所が個人には限りなく無かった。それが今では誰もが想いを表現出来るようになり、共感性がより強いものとなって新たな共感性を生み出す事になった。

だがその共感性は時に壊れた共感性として捉える事も出来る。
その壊れた共感性がSNSでの私刑を生み出しているように僕は感じた。

何らかの罰を受けるべき行為をしたにもかかわらずお咎めが無いまま。
それではおかしいと感じ、法や組織が裁かないのなら個人がその人を裁く。
そんな私刑が増えてきているのはこの壊れた共感性によるものなのだろう。

権力のある者や結果を出す者は何をしても許されてしまう、忖度されて良いように扱ってもらえるという事実は未だにある。
その事に怒りを覚えた人たちが声をあげ、壊れた共感性と共に私刑を下してこれらの人たちと同じような人を生み出さないよう、そして社会を正そうとしているのだろうと考えられる。

だがその行動や想いが強すぎるのも事実。
壊れた共感性から生み出される過激な言葉や表現を使い私刑を行う。
その事によって新たな悲劇を生み出し、
事態は余計悪化してしまう事だってあり得る。

だからと言って何も言わずに過ごしているのも何か違う。

だとすれば僕たちに出来る事・・・
それは過剰に行き過ぎた言葉や表現を使わず、
理性を保った言葉遣いや態度でその想いを伝えるべきなのかもしれない。

僕自身もその事を肝に銘じておかないといけない。

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