これは僕からすれば挑戦の1つでもある
これまでは何が目的なのか何の為にnoteで記事を書き続けていたのか、はっきりせず曖昧な気持ちを持ち続けたまま書いていたように思える。
自分の体験や想いをありのままに記し、心の整理をつけていたようにも思える。
だけど僕が書く内容はセンシティブなものが多い。
ゲイというセクシュアル自体が世の中にはセンシティブだと捉えられる気もするが、それ以上に僕は自らの中に存在する性への気持ちを赤裸々に綴っている。
これは僕にとってある種の挑戦みたいなもの。
LGBTをきっかけに世の中が性に対する新しい考え方を始めても良いのかなと僕は思っている。
性教育もそうだけど日本は他国に比べ性に対しての考え方が死と同様に、どちらかと言えば禁忌に近い感じで扱われているように僕は感じる。重要な場面に直面するまで知らなくても良いといった感じに。
「眠れる獅子を起こしてはいけない」
まるで腫物のように扱うその様はどうなのだろう?
眠れる獅子が自らを獅子と気が付く前に獅子である事を知らせるべきか。
それとも眠れる獅子が自らを獅子と気付かぬように知らぬふりをするのか。
はたまた眠れる獅子が自らを獅子と気付かず、手が付けられなくなる様を周囲は見て見ぬふりをするのか。
僕は性と眠れる獅子を同様かなと考えている。
何でも自己責任という感じの世の中になっているけど、随分無責任な空気が流れているなと僕は感じている。十分な情報や知識が与えられていない、あるいはその能力が無いのにそれを全て自己責任で片付けるようでは…。
僕がLGBTと性教育をセットで語るのには訳がある。
それは全てのセクシュアリティが平等かつ安全に自分の性を全う出来るようにするべきだと思っているからだ。
学校で何処まで性教育をするべきか、LGBTの事を子どもたちに教えるべきか否かという議論が今熱を帯びている。僕が子どもの頃は手短な感じの性教育だったし、後は何となく察しろというような空気があった。ゲイの僕からすれば男女のみがセックスするもので、僕みたいな男を好きになる男はどうすれば良いのか分からない有様。
学校が性教育の全てを教えなくても良い。
学校はLGBTにセックスの仕方を教える所ではない。
自分の子どもがセックスに興味を持ったらどうしてくれる。
そんな事を思う人たちだっているだろう。
それなら誰がこの世界に存在する性に対して知識を与えてくれるのですか?
教える事を恐れたせいで酷い事態になった時、誰が責任を取るのですか?
間違った知識を子どもたちが得てしまい、そのせいで痛い目に遭った時は自己責任で済ませようとするのですか?
全てを子どもの時に勉強したり学習するのは無理がある。
それでも最低限覚えていた方が良いものだって多くある。
僕が書くR18の記事は性に対して考えるきっかけの1つになれば良いなと思っている。