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たびけん ~ 日本の素敵な建築を知りたい/守りたい人たちの旅の記録 ~8
エピソード8 Bitter Tears
【エピソード7からの続き】
「目の前のこの蔵はどういう方の作品なんですか?」
「河上伊吉という人なんだけど、元々は行商人で、吉澤仁太郎に見込まれて佐官職人になり、これを作るために富山県の竹内組で修行をしたそうだ」
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これを造るために佐官職人になった?
しかも富山?
調べたら長岡からは200キロとか離れているのに、交通手段が未発達な時代にそこまで行く理由ってなに?
「なぜわざわざ富山へ行ったんですか?」
「富山の竹内組に竹内源蔵という、鏝絵名人の名佐官がいた。源蔵は15歳の時に東京まで出て、帝国ホテル貴賓室の漆喰彫刻を手がけたような、若い頃から腕を認められて一流の仕事をしていた人だったんだ。源蔵が帝国ホテルで仕事をしたのが明治34年、1901年のことで、明治40年代には名越家の土蔵に『双龍』などの素晴らしい鏝絵を残した。源蔵20代の仕事で、現在は名越家から射水市の竹内源造記念館に移設されて展示されている。この『双龍』は本当に素晴らしい。そういえば、写真、撮ったな。まだ名越家にあった時、家の方の許可をもらって撮影したものが」
先輩はスマホを開いてしばらく探し、
「あった、これこれ」
と作られた場所にあった頃の『双龍』の写真を見せてくれました。
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「迫力すご!これ、かなり大きいですよね?」
「高さ1メートル、幅は17メートルほどある。日本最大の鏝絵作品だよ」
「龍がせり出していて、写真でも立体感が伝わりますよ。それに波としぶきの躍動感! これを20代で作り上げたんですか」
「そう。凄いよね。源蔵の腕の良さは長岡まで聞こえていたんだろう。伊吉が修行に行ったのはこの『双龍』を作り上げた少し後、大正時代の初め頃だ。伊吉が来た頃の源蔵は、佐官職人としてますます名を上げていた時期。勢いがあった30歳前の源蔵から伊吉は教えを受けたんだろうね」
「長八さんから始まった鏝絵は、技術やアイデアがリレーされ、遠く離れた長岡の地でこんな素晴らしい作品として結実したんですね」
我ながらうまく言えた、と思っていたら、丹波先輩は珍しく笑顔を見せ、
「なかなかいい表現だね」
と誉めてくれました。
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鏝絵のひとつひとつをじっくり見ながら「ほんと、素晴らしいよね」としみじみ話す先輩に対し、私はまた疑問をぶつけていきます。
「素晴らしいのは間違いないのですが、こんなに素敵なのに、なぜ私や私の高校、大学の友人たちは、この蔵や鏝絵のことを全然知らないのか。なぜ私たちに全く情報が届いていなかったのか。それがものすごく気になりました」
先輩はうなずきながら聞いていました。少し時間を置いて
「今日、ここに来てもらったのは、まず鏝絵の素晴らしさを知って欲しかったから。そして実物を見て、まさに今言ったことを感じて欲しかったからなんだ。この鏝絵蔵のようなものは他に無いけれど、日本のあちこちに素晴らしい鏝絵が残されている。しかし鏝絵の素晴らしさどころか、名称も存在も知られていないから、人を多く呼べる観光地にはなっていないんだ。僕はこの状態をなんとかしたいとずっと思っている」
私の疑問は、まさに先輩がどうにかしたいと頭を悩ませていた問題でした。
先輩によると、大分の安心院やここ新潟・長岡のように、市町村レベルで鏝絵を観光資源にしようという動きは以前からあり、「全国鏝絵サミット」も行われているものの、鏝絵の知名度、認知度がまだまだ低いため、観光客の選択肢に入りにくい問題があるそうです。
「鏝絵は日本のあちこちにあるのだから、鏝絵の認知度を上げれば、人を呼べる地方の観光地を増やすことができる。それをどうしたらいいか、ずっと考えている」と真面目な表情で、呟くように言っていました。
「私や私の周りには鏝絵の存在すら知らない人ばかりですから、旅行先として考えることすらないです。こんなに素晴らしいのに、なぜ広まっていないんですか?」
先輩は「鏝絵が“発見”され、価値を発信されるようになってから、まだ歴史が浅いからだと思う」と自説を語ってくれました。
「江戸の終わりから昭和初期にかけて、あちこちに鏝絵が作られた。ずっとそこにあるものだから、地元の人にとっては“日常の光景”あるいは“古ぼけたもの”に過ぎず、視界に入っても価値に気づかない人が多かったのだろう。蔵や建物の解体とともにけっこうな数が壊されてしまった」
そうした中で、長八の出身地・松崎町ではいち早く価値に気がついた人がいて、1972年に「伊豆八保存会」が発足し、1984年に「伊豆の長八美術館」が開館します。
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実は長八美術館開館の2年前、鏝絵がおそらく初めて全国メディアに取り上げられました。ある男性が東京の出版社に売り込んだのです。
【続く】
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