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たびけん ~ 日本の素敵な建築を知りたい/守りたい人たちの旅の記録 ~1 #創作大賞2024 #漫画原作部門

あらすじ

いつも「素敵だなぁ」と見ていた憧れの建築が、ある日取り壊されてしまった。いつか見に行きたいと思っていた建築も、気が付いたら解体済みだった。調べたら設計したのは有名な建築家だったり、地域の歴史を象徴したものだったり。紀子は高校時代から貴重な建築を活用できないか、残すにはどうしたらいいかを考えていた。同級生からある大学に建築の記録と保存・活用に取り組むサークル「たびけん部」なるものが存在すると聞き、その大学に進学してすぐに入会する。
これは紀子の視線から語られる建築好きの“建ちゃん”たちの活動記録である。

エピソード1 アールヌーボーの館

フランスにもない特別な内装 その計り知れない価値


「優美…」「ユウビ…」「ゆ・う・び…」

私は部屋の真ん中でゆっくり回転しながら、視線を上下に動かし、じっくりすみずみまで見ていた。
口をあけてニヤニヤしっぱなしだったと思う。別の部屋でも同じことをしていたから、居合わせた見学者さんたちはきっと「なんだこいつ?」と不気味がっていたに違いない。でも、そんなの関係ない。感動して脳汁ダダ漏れだった私には、視界の外で何が起こっていようと知ったこっちゃなかった。

「丹波先輩が『マスト!』と言うわけだ」
私は回りながらうなずいていた。

OBの丹波先輩から手渡されたリスト「必見の十軒」のひとつに、やっと来れた。
旧松本家住宅。
福岡県北九州市戸畑区。JR九州・戸畑駅からバスに乗って丘陵地の方に10分ほど。「明治学園前」で降りて、公園の歩道をしばらく歩くと、木々の奥からハーフティンバーな洋館が姿を現す。
「必見の十軒」の筆頭がこの旧松本家住宅だった。国指定重要文化財だ。

竣工は1911年=明治44年。設計は辰野金吾。そう、東京駅を設計したあの人だ。辰野さんに設計を依頼したのは、石炭で財を成した松本健次郎さん。父親である安川敬一郎さんと石炭業を興して大成功した。父と苗字が違うのは養子に出たから。父安川さんらとともに、明治専門学校(現在の国立九州工業大学)をこの近くに創立した。松本さんはここを自分の家と学校の迎賓館を兼ねて建設する。

この建築の大きなポイントは、内装にアールヌーボーを採用したこと。辰野さんがアールヌーボーを取り込んだ、珍しい建築なのだ。

辰野さんといえば、東京駅や大阪市中央公会堂のような赤煉瓦建築が有名。色は違うけど日本銀行も手がけていて、都会の重厚な建築のイメージが強い。しかしこちらは、中心街から離れた森の中のアールヌーボー満載木造二階建て。街の中vs森の中、重厚vs優美。辰野さんファンならそのギャップに萌えない人はいないだろう。

もう入り口から萌えポイント。ドアの窓格子、いきなりアールヌーボー。
入って右に進むと、左右の扉の上に漢字の「山」をデザインしたような欄間。天井にもしっかりデザインが施されている。短い廊下の正面にはアーチ状のまぐさがあって、それをくぐると、ああ、憧れていた空間その1だ。

吸い込まれるように奥まで歩く。圧倒的な存在感を放つマントルピースを、ゼロ距離で見たかった。はめ込まれた大理石が円を描いている。四角いのはよくあるけど、これは丸い。しかも使われている天然大理石の模様が炎のように見える。冷たい石なのに、激しく燃える炎のよう。火がなくても熱を私の脳に伝えてくる。大理石のデザインとこの模様が相まって、存在感がすごい。

視線を上げれば、天井近くまで続く荘厳な木製の装飾。そのまま視線を右側にずらすと、柱型とアーチ型のまぐさを優美な半円がつなぐ。そのままさらに右を向けば、2階へと続く階段スペース。階段の手前には4本の柱と、それをつなぐ連続するアーチ型のまぐさ。ああー、どれも直線にすれば作るのが楽なのに、こんなところまで凝って曲線にしちゃって。アールヌーボー熱に脳を支配されちゃったのね。 

私、こんなことを考えながら、マントルピースの前でゆっくり回っていました。下を見れば、床板の貼り方も独特で美しい。こんな床、みたことない!上を見れば天井からぶら下がる照明器具がトンボっぽい。アールヌーボー味(み)!

マントルピース前ではなく入口側から

入って1分後から感動と興奮が止まらない。この調子で見ていると時間内に見終わらないので、次のポイントへ。 

1階奥、有名な賓客用の食堂。部屋の奥にある壁が視界に入った瞬間、息が止まり、ため息が出る。なんて素敵なアールヌーボー! 

壁に組み込まれた棚、その周囲には大きく弧を描きながら壁の左右を結ぶ曲線と、途中で介入してくる柱型の直線。曲線と直線の交差点に絡む半円。組み込まれた棚にも凛々しい曲線。 

正面から棚と壁を堪能して、そのまま時計回りに回転を始める私。ドアの上には木々と小鳥の絵がある。マントルピースは、円の中に四角く貼られた大理石。ここは四角いんだ。それに大理石がおとなしめ。そのすぐ上には植物の彫刻。この部屋も床と天井がいいなぁ。

そのまま右に回って、さっきまで背を向けていた入り口側の壁を見て、驚いた。奥の棚の周りと同じように、壁の左右を曲線でつなぐアールヌーボーな装飾が!ちゃんと対になってる! 

さらに回ると、庭へと続く扉が3か所。窓ではなく、扉。庭に出ることを前提にした仕様か。3つの扉の上には、また木々と小鳥の絵。暖炉側と合わせて扉の上の絵は5枚。それぞれ絵柄が違う。訪れた客は、どこに座っても、どちらを向いても、この贅沢な装飾が目に入ってくる。 

それにしても、最初の部屋でも思ったんだけど、棚も扉も柱型も、壁の左右をつなぐ曲線も、使われている木がとてもきれい。仕上げも素晴らしい。材質はなんだろう? どんな人がどのように仕上げたんだろう?

また時間をかけてしまった。先を急ぎます。階段の下のドアへ。こここそ、丹波先輩のリストに「必」「マスト」とハンコのような太い字で書いてあった一室。
先輩の「推し部屋」ってことか。
いったいどんな…
ゆっくり扉を開いて、中に入った瞬間に、「アガ!」とおかしな声を出してしまった。 

圧巻…。
美しい、美しすぎる…。

 視界右側、とてつもなく美しい本棚がある。
瞬きを忘れ、見つめたまま前へ進む。
本棚の上、マントルピースと一体となった孤が描かれ、さらにその上にはきれいな橋がかかっているかのよう。

マントルピース前で回転を始める私。

右に回って入ってきた扉を見ると、え!ここにも!

床から立ち上がった円が、入り口の上で柱型と別の円と交差し、反対側の床に着地する。入った時には気が付かなかった。こんな美しいエントランス、見たことがない。
この部屋から出る時、扉を開けたら向こうには天国があるんじゃないか。ボブ・ディランじゃないけど、天国への扉とちがうのん。そう思うぐらい美しい。

さらに右に回ると、本棚の向かい側に出窓があり、その周りも直線と曲線で彩られている。アールヌーボーに三方から囲まれている!
窓の外には久保田小三郎設計の日本館がチラリと見える。 

なお、この時の私の口は入室時に「アガ」と奇声を発した形を維持していて、つまり、「あ行」で叫んだので、「あ」の形で開いたまま。
開いた口をふさぎ忘れて、その美しい光景を1ミリたりとも見逃さず、細部まで目に焼き付けてしまいたいと、何度も回転していた。

 「優美…」「ユウビ…」「ゆ・う・び…」部屋の真ん中で、口をあけてニヤニヤしながらゆっくり回っていた私を、不意に聞き覚えのある声が呼び止めた。
「黒川! 黒川紀子!」
「はい…。あ、丹波先輩!どうしてここへ!?」
「必見の十軒」のリストを渡してくれた丹波先輩だ。

「すごい顔して回ってたから、声をかけるのを躊躇してしばらく見てたよ。今日は戸畑駅の海側、例の建築群の現状調査でね。近いからこっちも立ち寄ったんだ」
あの顔、見られていたか!
「旧松本家住宅って、見学日には事前申し込みなしで入れるようになったんだ。随分前に来た時は、往復ハガキで申し込んでからでないと入れなかったよ」
話を続ける丹波先輩。言い訳するスキを与えてくれない…。

丹波先輩、丹波健三。あの有名な建築家と似た名前なのは、建設会社を経営する父親が憧れてつけたかららしい。ちなみに名前に三が入っているが長男だ。
私が大学で入った「たびけん部」を立ち上げたひとり。うちの大学でフランス語を学んだあと、京都の大学に入り直し、一級建築士の資格を取った。今は父親の会社に軸足を置きながら、あちこちで設計にたずさわっていると聞いた。

「この部屋を“マスト”にした理由がよくわかったでしょ?」と丹波先輩。
「はい、知らない人が住んでいた家で、こんなに感動したのも、じっくり壁や調度品を見たのも初めてです。床と天井もこんなに隅々まで見たことありません」
「独特な言い回しだな」
丹波先輩はそう言って笑った。
「2階の和室は見た? ちょっと説明が必要だけど、アールヌーボーという文化にとって重要な部屋がある」
「いえ、まだ階段から上には行ってないんです」
「じゃあ、行こう。説明するよ」

部屋を出るとそこは天国…ではなく、すぐに2階への階段だ。
階段も美しかった。飾られた絵も、ステンドグラスも、2階に上がった瞬間に目に入る光景も…。やっぱり天国ってことでいいか。語りたいのだけど、今は先を急ぎます。

2階の和室。まず目に入ったのは天井だった。この中央部分は折上格天井? 組むのにけっこうな手間と技術が必要な、格式の高い天井様式とされるヤツじゃない!

「先輩、この天井…」
「うん、折り上げてるね。天井もいいんだけど、それは日本の伝統様式。見て欲しいのは目の前のこれ」
そう言ってマントルピースを指差した。

日本画に取り囲まれ、他の部屋より落ち着いたイメージだ。
「草花の絵ですね。伊藤若冲っぽく見えます」
「若冲か。若冲だったら大変な騒ぎになってるだろうね。これを描いたの、高島北海という人なんだ」
誰それ?聞いたことないんですけど。
「高島北海?有名なんですか?」
「明治政府のお役人さんで、工部省、農務省にいた人。この人がいなかったら、アールヌーボーのあり方が変わっていたかもしれない」
「へ???」
耳を疑った。明治政府の役人がアールヌーボーとなんの関係があるの?
アールヌーボーって、1890年代に遠く離れたフランスから始まったムーブメント。今のように飛行機で簡単に海外へ行けるわけじゃなく、移動が大変な時代の話なのに、なんで日本人が関わることがあるの?

「先輩、ちょっと何を言っているのかわかりません。19世紀はまだ、今とは比べ物にならないほど人の移動も情報の移動も大変だった時代です。しかもその頃、フランス語を話せる日本人なんてほぼいなかったんじゃないですか。勉強する場所もなさそうだし。どうやって日本人がアールヌーボーに関わるんですか?」
 
丹波先輩は涼しい顔をして説明を始めた。 

「高島は1871年に東京に出て、築地の居留地で1年ほどフランス語を学んでいたそうだ。その後工部省に入り、1872年に兵庫県の生野銀山に赴任した。そこでお雇いフランス人技師からフランス語と地質学を学び、やがて通弁、つまり通訳としても働くことになる」
「フランス語を学ぶ機会があったどころか、通訳まで!?」
「工部省を辞めた後には農務省に雇われ、日本各地の官有林を回って調査し、山林や動植物、地質などに関する精密なスケッチを多数残している」
「へー、山や動植物のスケッチを残しているんですか。そこは確かにアールヌーボーにつながってきますが…。政府の役人や通訳になるぐらいだし、やっぱり頭の良い人だったんですか?」
「頭は良かっただろうね。山口県の萩で藩医の子として生まれ、小さい頃には明倫館に通ったそうだよ」
「明倫館、知ってます!高杉晋作さんが松下村塾の前に通っていた長州藩の学校ですね」

うっかり私の高杉愛が漏れてしまった。

「そう、その松下村塾を作った吉田松陰も明倫館に通っていた。それから桂小五郎と井上馨も。高島と同じ頃には乃木希典もいたそうだ。明倫館はいまで言うエリート養成学校みたいなものでね。長州藩が享保年間、つまり徳川吉宗の時代に…」
「暴れん坊将軍!」

頭には松平健さんが白い馬に乗って疾走する姿が浮かぶ。朝見てたのは何度目の再放送だったんだろう。

「まあ、その時代だね。吉宗が将軍だった頃、長州藩は人材育成のために多額のコストをかけて明倫館を作った。明治維新の150年ほど前だ。そして幕末になると、当時の藩主・毛利敬親がさらに人材育成を強化すべく、規模を拡大した。1849年、黒船来航の4年前だね。以前からの儒学や兵学のみならず、洋学を取り入れて科学的・合理的に思考できる人材を育成したんだ。そうして生まれたのが吉田松陰ら明治維新の立役者たちで、高島もそこで学んだんだ」
「そういえば、明倫館って江戸時代の“三大藩校” のひとつにあげられるぐらい優秀な学校でしたね、高島さんって明治維新の立役者とどれぐらい歳が離れてるんですか?」
「1850年生まれだから、桂小五郎より17歳、井上馨より14歳下になるね。高島本人は明治維新の年に18歳。明治政府の役人になったのは、もちろん学業も優秀だったんだろうけど、新政府を牛耳っていた長州藩のコネもあったかしれない」 

高島北海という人がフランス語を話せる、おそらく優秀な人物だったというのはわかった。しかしこの時点では、アールヌーボーとの関わりも、この絵を描くことになった背景も、ここを見せたかった理由も、まるでわからない。
 「でも、政府のお役人がなんでこの絵を描くことに? ちゃんと上手いけど、役人だから発注したということなら、なんだか良くない癒着のにおいがしてきます」
「高島は絵の腕も一流だったんだ。50歳ごろには役人を辞めて画家一本で生きていく。この旧松本邸ができたのは1912年だから、高島は62歳。役人は辞めた後で、文部省美術展覧会の審査員を務めていた頃だね」
「えー、審査員!画家を本業にできるぐらい絵の才能もある方だったんですか! でもなぜアールヌーボー? 遠く離れたフランスの美術運動ですよ」 

後日、高島さんとアールヌーボーの関係を調べてみると、よくあったのが「高島はアールヌーボーの担い手、エミール・ガレらナンシー派の美術家たちと交流し…」といった数行の説明で、詳しい情報はあまり見つけられなかった。
この後に続く先輩の話は、時代背景や高島さんだからできた理由を、グッと立体的に示してくれた。

「さっきフランス語を学んだという話をしたじゃない。高島は役人時代の1885年から3年間、フランス・ナンシーにある林業などの技術官僚を育成する学校に留学してたんだ」
「え? ナンシー!? それってナンシー派の?」
「そう、エミール・ガレやドーム兄弟、ヴィクトール・プルーヴェらの作家を擁して、アールヌーボーのムーブメントを引っ張った人たちの拠点、ナンシーに3年も留学してたんだ。浮世絵がフランスの画家に多大な影響を与えたことは知ってるよね?」
「はい、知ってます。1867年のパリ万国博覧会に日本から徳川幕府と薩摩藩、佐賀藩が正式に参加し、浮世絵や磁器などを出品したことで、日本のアートへの注目度がバカ上がりした、と何かで読んだことがあります。あと、日本製磁器の緩衝材として入っていた浮世絵を見て、衝撃と影響を受けたアーティストもいたんですよね」
「ジャポニスムといって、高島が渡仏する20年ほど前からイギリスやフランスで日本ブームが起こっていた。モネ、マネ、ドガ、ロートレック、ガレ…。多くのアーティストが浮世絵や磁器などに影響を受けた作品を残していったんだ」

 江戸時代が終わりに向かい、明治時代が始まろうとしていた頃、日本のアートは遠く離れた海の向こうのアーティストの間で熱狂を呼んでいた。
マネが浮世絵の影響を受けて描いたと言われる「笛を吹く少年」は、1866年の作品だ。 
「高島が渡仏した当時も浮世絵人気は盛んだった。あのゴッホも浮世絵が大好きでね。ゴッホが浮世絵を買うようになったのが1885年。高島がナンシーに入った年だ。ゴッホは1886年にパリに住み始めると、浮世絵を収集して模写している。1887年には、作品の背景に浮世絵を描き込んだ『タンギー爺さん』や、渓斎英泉の浮世絵を左右反転で模写した『花魁』、歌川広重の『亀戸梅屋敷』を模写した作品を残している」
「広重のは、オレンジの枠を付け足して、他の絵からまねした漢字を書き込んだアレですね」
「後に世界的なアーティストとなるゴッホまでも浮世絵に夢中になっていた、まさにそんな時に、ジャポニズムの本拠地から高島北海がナンシーにやってきた。絵が描け、植物や地質に詳しく、しかもフランス語を話せて直接コミュニケーションが取れる。高島の絵の上手さが知られるようになると、ナンシーのアーティスト達が集まってきて『日本の絵を描いてくれ!』『ジャポンの花や植物について教えてくれ』と要求してきた。高島は乞われるままに次々と山水画や水墨画、花鳥画を披露し、日本の植物について話をした。その集まってきた中にいたのが、ガレやプルーヴェらだ」
「ナンシー派の中心人物!」
「やがてナンシーのアーティストたちは、高島から日本の美術や美意識、自然観などを吸収し、独自のスタイルを作り上げていく」
「ナンシー派といえば、草花や鳥、虫など自然のものをモチーフにした作品で知られてます」
「ナンシー派が自然のモチーフで独自のアールヌーボー路線を築けた裏に、高島の影響があったのは間違いない。実際にS.T.マドセンという著名なヨーロッパ美術の研究家は、『アール・ヌーヴォー』という著書で、『ナンシー派に限って言えば、ここにおける日本の影響の移入経路をたどってみるのは興味深いことである。1885年、タカシマという日本の一植物学者がナンシーの林業学校に入学してきた』とし、高島とガレらに親交があったことを記している。高島は浮世絵とは違う日本画や日本人の自然観をガレらに伝えた。ナンシー派が独自の作風を確立していく中で、高島から受けた影響は相当大きかったと思う」 

ここまで聞いてハッとなった。
つまり、アールヌーボーの発展に貢献した人の絵が、このアールヌーボーの館にあるってこと!? 
「先輩、そんな方の絵がここにあるって、実は凄いことなんじゃないですか…」
「気がついたね。旧松本家住宅は、ジャポニズムの本拠地に建てられたアールヌーボー建築の中に、アールヌーボーの原点の一人の絵があるという、稀かつ歴史的に貴重な建築なんだ」 

目に入る景色が変わった。
視界は、知識によって変わる。

 感動に浸る一方で、ひとつの疑問が湧いてきた。
「なぜそれほどの人の名が、日本では無名に近い状態なんですか?」
丹波先輩は、「うん」とうなずき、少し寂しげな表情を浮かべて話してくれた。
「高島には師匠も弟子もいなかった。だから亡くなった後に積極的にその功績を伝える人がいなかったのがひとつ。それから、高島が審査員を務めた文部省美術展覧会、つまり文展で権力争いが起こり、主流となる東京美術学校系の新派に対し、高島は旧派のひとりとして対立したため、近代日本画の『正史』から外され、扱われなくなってしまったというのもあるようだ」「ああ…。権力争いによくある顛末」
「実は高島北海がナンシー派と交流していた『タカシマ』だと一致したのは、1970年代に入ってからなんだ。それまで誰も文展で審査員をしていた高島が、アールヌーボーのアーティストと関わっていたなんて知らなかった。この家の建築主の松本健次郎も、高島とナンシー派との関係はよくわかってなかったかもしれない。この奇跡の組み合わせが生まれ、この素晴らしい建築と共に100年以上保存されていることは、もっと讃えられるべきことだと思う」

 建築にはドラマがある。私は先輩と建築を巡る旅をする中で、こんな思いを何度もしていくことになる。

#創作大賞2024 #漫画原作部門


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