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忘れてはいけない悲しい歴史 満州国からの引き揚げ

敗戦後、満州国からの引き揚げは困難を極めた。
ソ連兵の侵攻。殺戮、略奪、強姦。
日本人は悲鳴を上げ自決する人や飢えで亡くなる人が相次いだ。
幼い子供たちも命懸けで日本を目指した。

満州国からの引き揚げ ソ連兵の侵攻 引揚港博多

●敗戦直前に攻めてきたソ連軍
昭和20年8月8日。ソ連参戦の翌日から、ソ連軍による「開拓団」への爆撃が始まる。
「開拓団」は、現地(中国)の人たちからも襲撃され、女性たちの自殺が相次いだ。
子どもだけ残して死ねないと、わが子を殺す人もいた。


港に向けて「引揚船」が出航。
昭和23年末までに総計105万人がコロ島から博多港を経て故郷に帰った。
博多港は、中国大陸に一番近い港で、引揚者、復員兵の受け入れ港となった。

「引揚船」は揺れるので、体調を崩して亡くなった子どももいた。遺体はそのまま海に投げ込んだ。
引揚船内での死者を含めて、約24万人が戦闘・暴行・病気・栄養失調で亡くなった。

3500人の引き揚げ日本人を乗せた江ノ島丸が博多港に入港(昭和21年)

日本に帰れた子どもは「引揚孤児」と呼ばれた。
孤児の中には、親の名前を思い出せない子どももいた。

(中国からの引き揚げの証言)
引き揚げ船の中で死んだ娘
1945年(昭和20年)8月、私たち夫婦と娘2人(4歳、生後5か月)は、北京から南西約700キロの山西省運城(うんじょう)という町におりました。戦局が危うくなったので婦女子は集団で内地に引き揚げることになり、私は娘2人と、オムツだけを持って運城から列車に乗りました。
終戦の玉音放送など聞くこともなく、終戦から一週間たって敗戦を知りました。私たちの集団約千人は、敗戦と同時に中国軍の捕虜となり、荷物のように無蓋車に乗せ換えられました。
夜、八路軍(中国共産党軍)の襲撃があり、次女を背中に負い、眠い目をこする長女の手を引いて、暗闇の中、貨車から逃げました。次女がビックリして泣き出すと、一緒に走っている気の荒いおばさんが目をつり上げて、「敵に見つかるから首を絞めて殺してしまえ」と激しい口調で怒ります。私は我が子を殺すのは最後の手段だと思って、何度怒られても我慢しました。こんな夜がいく晩も続きました。
暗闇の帰り道、足先に何かがぶつかったので拾い上げて見ると、蓋のないはんごうでした。狭い無蓋車の中で3人は額を合せて毛糸玉のように丸まって寝起きしました。水がないので持ってきたオムツが使えなくなり、逃げた日本軍が脱ぎ捨てた軍服をちぎってゴワゴワのオムツを作りました。お尻を拭いてあげることもできず、ただれて薄皮がむけてきました。痛くて泣く声が、心なしか元気がなくなってきました。トイレなどあるはずもなく、子どもの用便は拾って来たはんごうにさせて、外に捨てます。このはんごうは本当に神様からの贈り物だと感謝しました。
顔も洗えず、体もふけず、そのうちに貨車の中は酸っぱいような何とも言えない異様な臭いがプンプンしてきました。においに慣れると子どものシラミ取りが楽しい日課になりました。体にはシラミがいっぱいたかって、私たちと共存しているのだなあと思い、黙々と子どものシラミを取ってあげます。この集団は半数以上が子どもで、何かの病気で下痢をして死ぬ子が多くなりました。襲撃のない夜、駅に貨車が止まると、親たちが泣きながら穴を掘って埋葬しました。
3か月ほど無蓋車に揺られ天津に着き、収容所へ入りました。収容所は大きな倉庫で、床は硬いセメント。それでも毛布を敷いて子どもの手足を精いっぱい伸ばして寝かせてやることができ、天国だと思いました。収容所生活が1か月か2か月位続き、娘2人は風邪がもとで39度の熱が続き、苦しむようになりました。私は一人ずつ、手と体で抱き包んで一緒に泣いて暖めてやるしかできませんでした。天井の大きな高窓から吹雪が吹き込んできて、娘たちの顔にかかります。新聞紙を拾って来て掛けてあげると、少しは手足が暖かくなりました。
1月、乗船が決まった前日、収容所の日本人が広場に集められました。中国の将校が壇上に立ち、手を後ろに組んで私たちをにらみながら、「お前たちはこの中国に来て何をしたか、胸に手を当てて、よく考えてみろ。本当は一人残らず殺しても飽きたらないのだが、体だけは帰してやる。だからお金はもちろん、貴金属など金目の物は今すぐそこに置け。これに違反した時は全員銃殺する」と大声でどなりました。私はいつもおなかに巻いていた百万円余りの虎の子の全財産を足もとに置き、無一文になりました。しかし、「この子たちと私の生命は助けてくれるのかなあ」と心の中で安どする気持ちにもなりました。
天津から程近い塘沽(タンクー・天津市)でアメリカの上陸用舟艇に乗せてもらいました。この時、運城で別れ別れになっていた主人が運よく私たちを見つけてくれて、とても心強くなりました。
狭い船の中で、私と長女は喉の乾きを我慢しながら、周りに聞こえないように小さい声で話をして励まし合いました。
娘「内地ってどんなところ?」
私「山があって、川があって、きれいな水がどんどん流れているのよ」
娘「じゃ、水に入って遊べるねえ」
娘「おばあちゃんってどんな人?」
私「とてもやさしいよ。おいしい物をたくさん作ってくれるよ」
娘「抱っこしてくれるかなあ」
長女は4歳の子どもながら、不安の中にも夢をふくらませているようでした。
船内では1日1回、一つの水筒と4人分の水と、ほんの少しの外米を蒸したものが支給されました。子どもは日に日に衰弱してゆくのが分かりました。外米は生米なので、子どもは全然食べられず、水ばかり欲しがります。長女は栄養失調で骨と皮が目立つようになり、つぶらな目は鋭く、お腹は大きく膨らんでいました。飲み水は午前中でなくなり、枕元を通る人たちにかすれ声で、「おじちゃん、お水……」、「おばちゃん、お水ちょうだい」と足にすがるようにおねだりしました。でも誰からも一滴ももらえませんでした。
乗船5日目、佐世保が遠く見えてきました。しかし長女は声も出なくなり、冷たくなって息をしなくなりました。4歳5か月でした。周囲の人に死んだことが分かると海に投げられてしまいます。
「なきがらは何としても一緒に連れて帰るんだ」と思い、涙が止まらないのを我慢して平静を装い、気付かれないように注意しました。夜になると次女をおなかの上に寝かせ、死んだ長女の頭と肩を抱いて、思いっきり泣いて謝りました。
下船までの3日間、針のむしろに座るような気持ちで、長い時間を過ごしました。上陸の時は、次女を私が背負いました。死んだ長女には手作りの帽子を深々とかぶせ、手拭いで作った大きめのマスクをさせて、主人が背負いました。長女は骨が伸びたのか、背が高くなったのか、まるで棒を背負っているようでした。
少し離れた海辺まで歩いて行き、砂浜に穴を掘り、流木を集め、拾った敷布で遺体を包み、分けてもらった重油をかけて火をつけました。外側のシーツが燃え、髪の毛がヂリヂリして、火が顔をなめ始めた時、私の心臓は締め付けられて、失神しそうになりました。
背中の次女も衰弱していて、小鼻を動かしてあえいでいます。私は気を取り直して、涙でゆがんで見える炎の中の我が子に向って、私が生まれた禅宗のお寺で覚えた般若心経を必死で何度も何度も唱え、足の震えを止めようとしました。
火がおさまった燃え残りの中の小さな骨を、涙でぬれる手で一つ一つ拾い集めました。命日は1946年(昭和21年)1月29日。あの子のお骨を私の故郷へ持って帰れたことがせめてもの慰めです。
人生の中で、我が子を亡くす思いは二度としたくないと思いました。
しかし、その7年後、今度は次女も疫痢で「お父さんありがとう。お母さんありがとう」という最後の言葉を残して、あっけなく死んでしまいました。

私は思い出したくない鮮烈なこの記憶を誰にも語りたくありませんでした。しかし、あれから50年がたって、日本の人々から戦争の記憶がしだいに忘れ去られていくような気がしてくると、心に「もう誰にも二度と体験させてはいけない。」という思いがつのります。
冷たくておいしい水を小さい口に注いでやりたかった。おいしい物を腹いっぱい食べさせてやりたかった。花嫁衣裳も着せてやりたかった。女としての、母としての、人間としてのたくさんの喜びを味あわせてあげたかった。
私は悔しい……。
テレビで中国残留孤児の顔が映し出されます。ちょうど娘たちと同じ年頃です。娘の命、それだけを助けるのであれば中国に置いてくる方法もあったかもしれません。でも私にはそんなこと、思いもしなかった。今でもあの極限の状況での行動を、間違っていなかったと思います。
銃口にさらされた家族のさまざまな記憶を51年目にして語ることで、薄れていきそうな平和の意味をあらためて問い直したい。昨年(1995年)、長女の50回忌を迎えました。次女と一緒に眠る墓前に花をたむけ、欲しがっていたお水を墓石に滝のように浴びせてあげました。
合掌


旧満州からの引き揚げは混乱をきわめ、多くの引き揚げ孤児たちを生み出した。46年12月5日、品川駅に引き揚げ孤児の第2陣33人が到着。先頭の少女は両親の遺骨を抱いていた。引き取り先が決まるまで、上野の同胞援護婦人連盟ホームに収容された。

満州から引き揚げた子どもたち(昭和21年、品川駅)

故郷への列車に乗る引揚者たち 佐世保の浦頭港に入った引揚者は、南東の針尾島にあった引揚援護局で各種の手続きを済ませ、2~3泊した後、南風先駅から日本各地の故郷へ帰っていった。
(昭和21年6月 佐世保 ウィドウスキー撮影)

漁船での引き揚げ 朝鮮半島から引き揚げてきた日本人たち。日本兵の復員とは違い、一般の日本人の場合このような粗末な漁船でやっと帰国してくる人びとも多かった。(昭和20年10月 福岡 ジョーダン撮影)


悲しい歴史ですが、
このような困難の中、生き抜いて来られた日本人がいたことを
私たちは絶対に絶対に忘れてはなりません。

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