「大山木の花」薄田泣菫
一
私の家の前庭に、大山木(たいさんぼく)の若木が一本立つてゐる。
五月の初め頃、生毛に包まれた幾つかの小さな頭を真直ぐに枝先から持ち出したその花は、日毎にその大きさを増していつた。そして六月も上旬の蒸すやうな天氣が續く頃になると、莟のふくらみは佛の前に合掌する尼僧の手のやうに、靑白さに透き徹る神經性の顫ひと清浄さをもつて來た。
やがて鬱陶しい梅雨の雨がしとしとと降り續くやうになつても、花の莟はふつくりと膨らんだまま、なかなか合掌の指を開かうとしなかつた。樹は花と發く前の莟 の處女性を心ゆくまで樂しんでゐるらしかった。
こんな氣長な、待遠しい幾日が續いて、 或る梅雨晴の朝、そこここに髪を洗ふ女のやうに、若葉の枝を俯伏しに水漬にしてゐた草木が、勢よく水の雫を切つて撥ね上る頃、莟のうちで一番大きいのが、二三日前から少しづつ膨らみかけた合掌の指を音もなく静かにほどくと、象牙のやうに乳白に、肉厚な花瓣が、盃形にはらと開いた。その途端、花の内ぶところから目に見えない煙のやうなものが、たよたよと立ち上つたかと思ふと、高い香があたり一面にぶんぶんと燻つて行つた。 幻想と靜虚との不思議な酸酵母。 私は雨の霽間を稼ぎと遊びと兼帶の遊山に出掛けて來るお洒落な蜂の眞似事をして、暫くの間鼻先を花粉で一ぱいの花心に近寄せてみた。
二
むかし、明の倪元璐が眼を病んだことがあつた。すると、彼は門人の徽州に居るものに註文して、本場でもとりわけ名高い程君房、方于魯二人の製墨を蒐め、それでもつて周圍の壁を塗りつぶし、終日その室のなかに黙々と坐つて、あたりの眞黒な墨の色と香氣とを樂しんでゐたさうだ。徽州に居る門人は、師匠からの註文が程をおかないであまりに頻々と來るので、
「先生はいくら書畫をお描きになるか知らんが、墨の費え方が随分とひど過ぎるやうだ。」
と、それとなく心配したものださうだ。
倪元璐は漆黒な壁に圍まれて、墨の匂が暗闇に低迷するのを楽しんだものらしいが、私はほんのちょつとの間だが、 乳白な天鵞絨のやうに冷い、滑らかな感觸を持つ花の扉のなかで、高い香の搖曳するがままに私の心を遊ばせてみた。 木深い枝を洩れる日光の斑點と若葉の陰影とが、音もなく小猫のやうに戯れる六月の森。 生命(いのち)をもつものすべてに肯定と成長とを與へ、一切あるがままに任せて雜念せず、自分と他との見さかひを忘れて、一つの大きなものの生命に安住してゐるらしいこの頃の草木の心。さういふものが、花の髄から焚きこめられて、私の身内に隅もなく滲み徹るのが感じられた。
三
たった一日、梅雨晴の靑磁色の空を見たばかりで、夜明け方からまた雨になつた。思ひきりよく咲き盛つてゐた大山木の花は、盃形のそれぞれの花瓣に雨を抱いて、その重みに堪へられないやうに脆くも散って行つた。
一日の夢。──幾十日ものながい間、莟のふくらみをいたはり育てて來たその木の意圖は、かくして何の遠慮もなく放棄せられてしまつた。自然の無駄──人間から見ると、あまりに無思慮に過ぎるやうな無駄を、自然は平氣で幾度も繰返してゐるのだ。
四
私の家には前栽の片隅に井戸が一つある。私はしらじらと咲きほころびた大山木の花の姿を樹自らにも觀せようとして、幾度か井戸近くへの移植を思ひ立つて、いまだにそれを實行し得ないでゐる。それには譯がある。
友人森田恒友氏の言ふところによると、氏が畫境の母胎ともいふべき水鄕 ──霞ヶ浦を合せた利根川が、大利根となつて下總常陸の國境を流れるあたりの兩岸に住む村の子供達のなかには、まだほんたうに石といふものを見たこともないのが居るといふことだ。
それと同じやうに、家毎に上水道の設備のあるこのあたりの子供達は、名前だけは知つてゐても、まだほんたうに井戸といふものを見たことがないので、塀外で毬投をしてゐる時、逸れ毬のあとを追うて私の家の前栽にはひつて來ると、最初に彼らの目につくものは、その井戸であるらしい。
「あ、井戸がある。井戸が…..….」
彼らはかう言ひ合つて、水に映る自分達の姿に笑い興じてゐるが、しまひには面白半分に、泥靴のままで井桁の上に飛び上るやうなことをする。
私達が子供の頃は、井戸といふものは、家のうちで最も神聖なものとして取扱はれ、偶に井桁に上るやうなことがあつても、そんなをりには履物を脫いで、素足のまま、
「御免ください」
と、ちょっと挨拶をした後でなければならぬことに敎へられてゐたのを思ふと、随分と變つたものだ。
そんなわけで大山木を井戸近く移し植ゑたところで、がむしゃらな子供達のために、すぐに押し倒されてしまふかも知れないのを氣遣つて、いまだにそのままにしてゐるのだ。
読書に朗読に、ご自由にお使いください。
出来るだけ旧字旧かなのまま、誤字脱字の無いよう心掛けましたが至らない部分もあるかと思います。ごく個人の文字起こしの為、何卒ご容赦下さい。
底本: 「樹下石上」創元社 昭和十八年十一月三十日発行