日本で演劇をやることについて考えた
カーテンコールの後が苦手だ
観劇をしていて、カーテンコール後に、役者が挨拶などをする時間が苦手だ。作品と切り分けたアフタートークなどにしてくれたらいいのに、といつも思う。もちろん、ハキハキとした喋りの物販案内や、次回公演の告知などが徹底されていればなんの不快感もない。見ている側も自然と現実に引き戻され、安心して拍手を送ることもできる。私が苦手なのは、そうではない場合だ。
打ち合わせもせずに、グダグダとする様を見て楽しむには、よほど出演者に思い入れのある必要がある。要は知らない大学生の“何か“の打ち上げに参加させられたような居心地の悪さを感じるのが苦手なのだ。舞台が面白ければ残念な気持ちになるし、つまらなければ尚のこと「帰らせてくれ!」と叫びたなる。
私たちは日本人なので
知人に、それが大好きな人がいる。全く知らない劇団の、第三回公演などに行き、客席にはそれなりに知り合い同士が座っているような雰囲気の中、カーテンコールで内輪のいじり合いなどが行われるのを楽しんで見るのだ。
知人は、私の意見を聞くと、大いに呆れてみせた。
「そもそも日本人がやっている演劇を見にいくのだから、本編も含めて『素の姿を見られて恥ずかしそうにしている』ところが面白いんじゃない? むしろ、妙に落ち着いた態度で演説調に挨拶などされてもしらけるだけでしょう」
そうだろうか。そうかもしれないな。完璧を目指せば日本人の日常からはかけ離れていく。歌舞伎、宝塚、劇団四季、様式美。小劇場に求めるものは、そういうものではない、確かに。
「日本人がやっている演劇」
数年前にロサンゼルスで学生の演劇を何本か見たが、カーテンコール後のトークも見事なものだった。淀みなく、テンポよく、ジョークを挟みながら家族や先生、そして観客に感謝の意を述べる。劇場の外で観客たちと談笑する役者たちの会話も同じ調子で、舞台の中と、日常とが、地続きであるように感じた。
ふと思い出したのは、日本人の話し方そのものに「恥ずかしい」という態度が含まれている、という話だ。
英語のレッスンを現地人に向けてやっているYouTuberたちがいる。インドならインド訛りの英語、フランスならフランス訛りの英語、ドイツならドイツ訛りの英語を教えている。そして、そういうYouTuberを好んでウォッチしている英語ネイティブの視聴者がいる。
私がその存在を知ったのは日本人中年男性の英語教師がやっているYouTubeチャンネルで、どうも動画のコメント欄に英語で「可愛い」とか「これが好きなんだ」とか、内容と関係ないようなことが書かれていたのだ。
彼らは日本人の英語教師が話す様子を面白がっていたのである。後にそれらのコメントは削除されてしまったが、タイミングよく見つけたおかげでそのような楽しみ方(悪趣味とは言えるが、正直な感想ではあると思う)を知ることができた。
「英語を話すときは堂々としているのに、日本語になると早口か小声か、接続詞の音だけ大きく伸ばすんだ、可愛いなあ」
日本人が自信を持って日本語を堂々と話すために、直さなければいけないことが全て説明されていた。日本人同士の多くはそれを違和感とは思わない。だって日本語ってそうだから。そうだから? 本当にそうか?
丁寧にゆっくりと書きなさい
字が汚いと恥ずかしがっていたら、とある先生に「あなたは絵が描けるのだから、ゆっくり丁寧に線をひけばいいのです」と教えてもらった。言う通りにすると、指先から綺麗な字が出てくる。楽しくなって何度も同じ字を書いた。
急いで書いているつもりもなく、急いで書いていた。焦っているつもりもなく、焦っていた。ゆっくり丁寧に書けば、多くの人が綺麗だなと感じる字を書くことができる(後はいくつかのルールを学ぶだけでいい)。相変わらず、普段は汚い字を書いてしまうのだが、このことだけはおぼえていて、ふとたまに思い出す。
言葉も、焦って早く出せば汚くなる。ゆっくり、一言ずつ丁寧に出せば、その音ははっきりと観客の耳に届く。早く話すためには特別な訓練と時間が必要だが、丁寧にゆっくりと話すのであれば、今すぐできる。
それを知ってからも、興奮すれば早くなり、言葉は雑になっていくのだけれど、少なくとも自分が誰かに言葉を送るときには、ゆっくり丁寧にできればな、と思っている。もしも次にカーテンコール後の時間を役者に渡すのであれば、そのことだけはしっかりと伝えたいと思う。
日本にいて、日本語で演劇をやっているのだから。やっていくのだから。
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