◎小野 vs 藤村
誰も知る由もなかったが、小野一族の遺伝子の塩基配列のちょっとした変異には他にはない珍しいものがあった。それでもある一カ所のグアニンがアデニンでありさえすれば何ということもなかっただろう。また、この変異は一族の男子にのみ継承されたから、和隆が女子に生まれてさえいればあの悲劇は起こらなかったはずだった。
この変異塩基対の組合わせは、それを持つ者に、あることに熱中していると他のことが耳に入らないという効果をもたらした。つまり本を読んでいたり、考え事をしているときに話しかけられてもすぐには聞こえないのだった。女たちは昔からこれが一族の男どもに共通する性癖だとして折に触れ話題にしたのだが、彼女らの不満は別にして実生活上さほどの支障となることでもなかった。それどころか時に他人からは集中力があると見做されて、それはまんざら悪いことでもなかった。この一族に共通する遺伝子のその他の表現型としてふぐ毒のテトロドトキシンには常人の十倍もの耐性があるという特異体質があったが、これは当然ながら試されるような機会もなく、誰知ることもなかった。
遺伝子結合の僅かばかりの不整合から、藤村朋子はノルアドレナリンの分泌異常と左右の目で微妙に異なる色覚とをもって生まれた。右目で見る色は左目のそれよりもほんのりと緑に色づいて見えているのだが、意識して片目ずつで比較しない限り本人でも気づくことはなかった。それら異常の連動の結果として、朋子は至って短慮に生まれついて、またまれにではあるが赤色系の特定波長のストレスに対して強度の心理不安と反動としての突発的攻撃性、時に異常なほどの性的衝動を覚えることもあった。
よく晴れた日の街角の、ほんの些細なきっかけだった。藤村朋子が道を尋ねようとした相手がたまたま小野和隆で、たまたま彼はこの時、動き始めた恋の行方に深く思いを巡らし、外部刺激をほとんど受けつけないという例の状態にあった。
「……」声をかけた朋子に和隆の返事はない。単に聞こえていなかっただけなのだが、無視されたと思い込んだ朋子の重なる呼びかけにやっと振り向いた和隆のトレーナーの前面が不幸にしてあの不安を引き起こす赤色だったのだ。
「何も覚えていません」聴取に対して朋子はそう繰り返すだけだった。車道に突き飛ばされた和隆はバスに跳ね飛ばされて即死。動機が見当たらないまま裁判官は過失と見なし、懲役三年を言い渡した。訳の分からないまま朋子はおとなしく役務に服した。両親は激しく泣いたが、やはり訳は分からなかった。
和隆の兄弟は事の理不尽さに何故だか漠然とした不安を覚えたが、事件の遠因に自らも共有する血が流れていることを感じたからだとは思いも寄らなかった。
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