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嫌われる勇気。

を今更読みました。非常に面白かった。(on 6月2日2021)笑

こう見えて実は、「心理学」を志したことがあります。理由は「わかられたがっている『誰か』を、わかりたかった。」から。

すなわち「じぶん」です。多感で傷だらけの思春期。たった一人でもいいから、「誰か」。わかってくれるひとがいたら、それだけで救われる。のに

そんな、泣き叫びそうな孤独。を抱えて、一生懸命笑って。それでも、願いのような祈りを夜空に捧げても、私の周りにはそんな都合のいい誰か。大人はいなくて。(待ったけど待ち続け、もう待ち侘びたけど)いないのなら、じゃあ「私」が「それ」になろう。そう思ったのがきっかけでした。

心理学の本場なら、アメリカ。(当時は日本の心理学の分野は現在程発達してなくて、ちゃんと学びたいなら海外みたいな風潮でした)プラス、なぜか「愛」を学びたかった。
私は小さな頃からずっと捻くれもので。3人兄弟の真ん中っ子で育ったものだから、なんというか。「愛情のひとり占め」というのを経験したことが、なかったのだと思う。だから、子供の頃淋しくなるとよく家出をしていた。笑(根っから。昔から年期の入った、呆れるほどの困ったさんです。涙)「探さないでください」といった体の置き手紙をして、母の反応を見るの。そう、コタツの中に隠れて。笑 今考えると、本当に、もう…笑 親には同情を感じざるをえないのですが。本当に、苦労したと思う。こんな自分を育てて。でも、昔からの風景で覚えてるのは。私は「弟」のせいで自分の愛情が奪われた、と思っていて。だから「〇〇なんて、いなければいいんだ!」そんな捨て台詞を残して、家をバーンって飛び出したこともあった。(で、こっそり車の影に隠れて親が探しに来てくれるのを待っていた。笑)でも、親は呆れて「放っとけ、アイツ。」みたいにもう探しに来てはくれなくて。で、ばーん!ってドアを開けて飛び出して「うわぁん!おねぇがどっかいっちゃったぁ!」って泣きながら現れるのが、弟っていう。笑「いや、お前じゃないわ!」&「お前のせいだわ!」笑 のダブルずっこけ&ツッコみ。をかます羽目になったんだけど。今振り返ってみると、それもまた今なら笑える思い出の一場面です。弟、私のこと、それでも大好きでいてくれて。笑 あの頃も今でも。それは、本当にありがとうだよ。笑
あ、うーん。だから本当は、ちょっと違くて「いなければいい」とは言い放ってないかも、だ。幼心に小さな弟がそんな言葉を言われたら傷つくかな?そんな心配はあって、でも弟がどんなに足搔いてもどう見ても「一番」で。なのにお母さんは、私が聞く度、綺麗事みたいに「お父さんが、一番。で、他の子はみーんな、同じ!」って言ってた。笑
当時は、嘘でも「あなたが一番よ」って言えばそれで安心、満足するのだから、方便でもそう言っとけばいいのに。って小さな頭のどこかで思ってた。や、それでもやっぱり私は見抜いて「嘘つき!本当は2番(…はっもしくは3番?笑)のくせに!」って気付いて泣き散らしてたのかな。笑

弟と私の名誉回復の為に説明すると、弟のことは、私も本当に大好きで。笑
弟が生まれた日。胸のなかにほわってひろがった不思議な、くすぐったい気持ち。それを世界中に知らせたくて、ご近所を歩きまわって、一軒一軒、(知ってるお家に)ピンポン鳴らして「あのね。今日。弟がうまれたんだよ。名前はね、○○くんっていうの!」って自慢して歩いてた。笑 今思うとかなりとんでもないけど、それが許される。時代、地域の関係性だったのだなぁと思う。でも、段々暮れていく夕闇のなかも何故か怖くなくて、そのぬくもりと一緒に歩く私は、すごく誇らしくて。「お姉さん」。そんな言葉だけで、なんだか自分がとても強く大きなものになれたような気がしてた。そして、みんなにっこり笑って「わぁ!そうなのー?よかったねぇ」ってあたたかく受け入れてくれるいいひとばかりだったから、私は図に乗ってこのうれしさを届けなきゃ!と次から次へと呼び鈴を鳴らしてた。(もうほんとに赤面です。笑)

でね、いわゆる私が欲していたのは、アメリカのTVドラマみたいにまっすぐわかりやすい愛情表現。お母さんが見つけた娘を思わず泣きながら抱き締めて「馬鹿!心配したんだからね!あなたがいなくなったらどうすればいいの!もうどこにも行かないで!…愛してるのよ」そんな場面だった。でも、現実は違う。母は、凄ーく悲しそうな顔をしながら「…あなたは、私を困らせて、楽しいの?」って困り果てて聞いた。ううん、全然。楽しくない…よ。でも、どうしてうまく出来ないんだろうなぁ。「違うよ。ただ、抱きしめて欲しかったんだよ。」そう言えれば、よかったのかなぁ。コタツに隠れたあの日も、ごめんなさい。悲しませたかったんじゃなくて、ただ、誰かにとって自分は「大切」なのだと、知って、言ってもらいたかった。

小さな頃の私は、ほんとうに、どこまでも。

「愛されたい」と(全身全霊で)鳴いてる怪獣だった。

自分のこの困った性質が、普通に受け入れられ難く、理解もされづらいものだというのは、自覚していて。それでも私は誰かに受け止めてほしかった。だから、心理学を学べば。その素養が、あれば。もしかしたら、そんな分野にはこんな自分の説明しづらい「わかって、もらえなさ」みたいなものを、受け入れられるような、気付ける器のあるひとに、出会えるかもしれない。そんな期待もあったのだと思う。

『愛と、理解』それがきっと、心底。わたしの欲していたものだった。

たぶん、飛び出したかったのだと思う。このたった一国に過ぎない、たった昭和という一時代に過ぎない、そんな価値観の中でもし自分の求めるものが、なかったとしても。広い世界には、そんなもんじゃない。私が求めるような、愛もきっとあるだろう。呆れる程誇れない。そんな単純な理由で渡米して、大学の授業で基礎学問としての、心理学を学んでみた。

フロイトが苦手だった。例えば「エディプスコンプレックス」某「○○期」「・・・え。それってあなたがそう(変態)だから、だけ、なの、では・・・?」正直な感想に固まる。えっ。心理学を学ぶということは、この概念を難なく受け入れて、さもありなんと次の勉学に励むの? ・・・いやいやでも。まだぺーぺーの私だ。何をワカッタ風に。学べばきっと、腑に落ちる観点が見つかるに違いない。そう思い直して読み進めては、3行ごとに「…や!それはお前(さん)が!だからだけ、なのでは・・」「・・・や、それおま」「・・・や。」
何回も進んではエンドレスに突っ込み続け、これを大衆化というか世間一般への物差しとして当てはめてよい概念なのか?私にはそう思えない。うーん考えるひと。は「心理学」には向いてないのかもしれない。そう思った瞬間だった。

それでもどうにか学び続けていて、方向性的に間違ってはない。気がする。けど、私が学びたいのはその人が「どうして」「そうなった」。そんな問題行動をしてしまった「理由」とか(はひとつの原因でしかなくて)結果としての現在の心の在り方を、既存の概念の「病気」に当て嵌めてカテゴライズすることじゃなく。その、たすけ方。それだけなんだけどなぁ。(そして正しい救け方を知るために、勉強はいる。それもわかっていた。)でもさ。だってさ。本当にひとが救われるのなんて、きっとほんのささいな瞬間だ。そこにわかってくれる「誰か」がいれば起こること。じゃあ救われるのに、そこが、場所が「病室」である必要、ある?「患者」になるのを待つ「先生」じゃなくて。その「前」に何か出来るんじゃないか。そんな夢とも野望とも、無謀ともいえる堂々巡りの矛盾を抱えていたら、新たな専攻に出会った。

いまだに、日本語で訳すと「どんなメジャー?」と聞かれる度、職業や、学問として説明するのは難しいと感じる。要は、「福祉」とか?組織や体系、どんな形でも目指す「How to help people」そんなメジャー。

そんな私が数年ぶりに、また学びたいと思ってしまった文書が

前置き長くなりましたが、この本の感想です。

実は数年前に一回トライしたことがあり、多分大学で学んだ気もする。でも当時はそれ程刺さらなくて、好きな考え方だけど一種の理想論。みたいに流れてしまっていたのだけど今。このタイミングで改めて読んで。最近の自分の葛藤から、少しずつ収まりどころというか、腑に落ち始めた。なんか楽になった気がするけど、なんなんだろう?が非常に解決されていく気がした。

簡単に言うと、アドラー心理学は「人はどうすれば幸せに生きることができるのか」という、人類の究極の望みを、常識へアンチテーゼを含みながら、とてもあたたかい眼差しで提示する、ひとつの考え方。のようです。

自己啓発。という言葉はどこかうさんくさい、詐欺めいた金儲けのきらいがあるし、人の弱みにつけこんだ商売、のような印象があった。でもアドラーの提示する心理学ってのは、もっとなんか。理想とするのは「すべてのひとが幸せである世界」でその循環を夢見てる学門で。一人の人間の辿り着いたこの世の理。その心理にして、真理。そんな哲学のように信念のある思想。そんな感じがしました。

この本はとある青年と哲学者との「対話」という出会いから始まる語り口で、アドラーの心理学をわかりやすく伝えてくれます。掻い摘んだ概要は、きっと私より上手に説明できるひとがいると思うので、ぜひ#ハッシュタグを利用して、そちらの記事を読んでください。笑 アドラー、そしてこの本の中で、とある青年である作者の疑問や憤りを受け取め、穏やかに答える哲人、岸見先生の眼差しや、深い見識からうまれる返答は、一貫して、とてもあたたかい。そんな対話というこころと知恵の剥き出しなる交流。

そういえば、心理学を目指し志す前に、何故現代には「哲学者」という職業が存在しないのだ!かつて、そう憤っていたことがあった。笑 もし、皆に当てはまるほんとうの正解がこの世にあるのなら私はそれを知りたいしそれと共に歩みたい。はぁ。かつてそうやって疑問を投げかけ、同志と討論し、概念みたいに正義を提唱しては、世間や人々に訴えかける。そんな日々が職業となったなんて。私は生まれた時代や、性別を間違えたんだ。よく、そう思っては、親にも聞いてました。笑

そんな派生で、私が本を読むのが好きだった理由を思い出した。最近読書する機会がめっきり減ってしまってたのだけど。昔は「退屈」が嫌いで、家にある書物に片っぱしから手をつけて、何かもっと。未知のモノ「なんか面白いことないかなぁ」そうやって宝探しみたいに、新たな、知らない何かとの出会いを探すのが好きで、本の背表紙を指で探っていた。いつか『書庫』のある家に住むのがずっと夢だった。よく本棚はその人となりを表すっていうけど。高倉健さんの映画が大好きで「本気」と書いて「マジ」とよむ。そんな任侠漫画を揃えていた父や、少年漫画を兄弟と共に一通り制覇している影響で、私はだいぶ男っぽく育ってしまったかもしれない。や、それむしろ「漢」っぽい…。笑 というか、私はわたしのなかに、小さな「野郎」を飼っている、のでは?と思う時があって、こどもの頃から何故かいつでも強くなりたくて、それは時に『男』を超えて、まさしく「野郎」笑

また脱線したので、話を戻すと。笑

私は、本を読む時。時空を超えて、その作者と対話していると感じていて。名作といわれる作品は、読む程果てしなくて、深い。ひとつはがゆいのは、その「対話」が一方的に受け取るのみってことで。その世界に飛び込んで、作者の思想の中に浸って、脳内シナプスが光を放って、繋がる瞬間。みたいに、あらたな言葉、知識に自分の世界が拡がる、あの感触がすきだ。

でもそれはどう頑張ってもやはり一方的な享受でしかなくて、相互性の成立しないただ受け取るだけのやり取り。はぁ聞いて見たい!このひとが、なんでそう思ったのか。どうやってそれに辿り着いたのか。はたまた気付いてしまった矛盾点。そんな無性に湧き上がるわくわくを抱えての読書が楽しくて好きで、いつも心のどこかでうずうずする感じ(だからフロイトにも疑問を投げかけたくて、しょうがなかったんだと思う。笑)

もしただの心理学書で、ただのHow to本だったら、きっとここまで嵌ることは無かったと思う。自分の場合は、この本に救われたというよりもここ最近の悩みを通して、じぶんがなんとなく辿り着いていた心境というかこころの在り方。そんなものがえらくリンクしていて、あれ?じぶんの迷いながらも歩んできた道、って。それ程間違っては、なかったのかな?なんて、本の中でも仰っているのだけど「答えとは誰かに教えてもらうものでなく自らの手で導き出していくもの」。改めて振り返ってみて、じぶんと道筋との答え合わせのような、そんな貴重な時間でした。

今、自分の人生について、悩んでいるひと。どうにもならない生き苦しさを抱えて、心が死にそうになるほど、悲鳴をあげてるひと。そんな毎日の中でどこに光明を見い出せばよいのか、わからない。だけど、『変わりたい』。そんなひとに、この本を手にとってみてほしい。アドラーは、この本のなかで、人間の悩みはすべて『対人関係の悩みである』と言っています。劣等感、承認欲求、トラウマ、居場所、人生の嘘、そして、幸せとは。

(変わりたい。けど人間なんてそう簡単には変われない。その方法すらもわからない)

もしあなたがそんなひと、なら。曇り空からの一筋みたいに、あたたかな光となってあなたの心にも届くんじゃないか。差し出されるのは、新しい画期的な物差しというよりも、いつの間にか変なところにこびり付いてしまった自分の物差しを、ぺりっと剥がして、本来の場所にそっと戻すようなそんな穏やかな導きです。

アドラー心理学は、人が幸せに生きる為に。そのために変わる為の心理学。即ち「勇気の心理学」とのこと。だから「変わりたい」そう願わない人は、この本を読むと苦しい。もしくは全く響かないのかも、しれません。自分の不幸を、何かや誰かの「せい」に出来たほうが、人間楽だから。人は誰でも幸せになれる。でも、全員が幸せなわけじゃない。自分を変えられるのも、自分を幸せにする為に頑張れるのも、まずは自分。「自分」に「由る」。
そんな自由と、勇気。

なんだか果てしなく宗教くさくなってきちゃった。笑

じぶんの段階として、「肯定的なあきらめ」としての自己受容。「嫌われ(もす)る自由」を選ぶという、承認や執着を離れた他者との課題の分離。それらはなんとなく出来るようになった気がする。(それでも時に抱え過ぎてしまっている気もする)「他者信頼」そんな勇気も知り始めて、実際に向き合い、築き始めたとこ。「いまここ」の瞬間をダンスを踊るように。丁寧に軽やかに生きる。これはまだちょっと下手で、傍からは滑稽に見えるだろうなぁ。笑 1,2,3。1,2,3。繰り返すリズムの中で、ぶつかったりドレスの裾を踏んだり、自分の足に躓いたり人につっこんだり。笑 そんなへたっぴなダンスもいつの日か心から笑えて、様になればいいな。そんな毎日を、手を取り共に笑ってくれるひとと、生きてゆけたらいいな。目指す先は「他者貢献」で、言うほど簡単ではなくて本当の意味での理解、そして人生が変わるには今まで生きてきた年月の半分の時間を要するというし、わかった気がしては何度も見失ってしまうけれど。でも、何度だって選び続ける。その「勇気」と「覚悟」はきっと、わたしと、周りの世界を少し幸せにする。のかもしれない。笑

今回は図書館で借りて(今なおとても人気で予約待ちだった)読んだのだけど、これはぜひ自分で購入して、この先の人生において、何度も指針のように開いて自分の歩みと答え合わせをしたい。そう思わせてくれる本でした。

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