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曖昧な写真の魅力

写真はレンズを通して様々な世界を切り取り、記録するものです。その中でシャッターを切るタイミングは人それぞれだと思います。懐かしい光景を発見した時、友人・家族との愛を感じた時、なかなか出会えない場面に遭遇した時。記録する写真はピントがあった鮮明なものだけでなく、ピントのズレた写真やブレを伴った写真も存在します。必ずしもピントの合ったものなど、鮮明に写った写真だけが魅力を感じる写真ではないと思っています。

むしろピントがズレた写真やブレを伴った写真には、独特の魅力が宿っているのではないかと思います。それは単に目の前のシーンを切り取るだけでなく、記憶や感情に寄り添う力を持っているのでは?と考えています。


人間の記憶は鮮明ではなく、どんなに鮮烈な出来事も時間が経つにつれてぼやけ、詳細な部分は曖昧になります。ですがその曖昧さが記憶に余白が生み、見る人の感情や経験と結びつきやすくなるのではないでしょうか。写真にも同じことを感じており、ピントの合っていない写真やブレを伴う写真は見る人に「何かを思い出させる力」を持っているのではないかと感じています。


例えば、夜の街を歩いた記憶を思い返すとき、ネオンの光が滲んで見えたり、人々のシルエットが流れるように動いていたりします。そんなぼんやりとした情景を捉えた写真は、記憶の質感に近いものを感じます。ふと思い返した時の記憶の断片というか、明確には思い出せないけれどもぼやけつつも脳内に写った映像を見ている感覚です。ピントやブレの曖昧さは、明確に写すことができない記憶の詳細な部分を表現しており、現実を超えて記憶を呼び起こすもの・記憶に近いシーンを形にする力を持っているとも言える気がします。



鮮明な写真は曖昧な写真よりも「記録性」を強く持っていると考えており、多くの情報が含まれていると思います。一方でピントが曖昧だったりブレがある写真は、情報の伝達力が落ちる反面、写真を見る側の想像力を刺激する余地が生まれるのではないでしょうか。

例えば、動いている被写体に対してシャッタースピードを遅くして撮影すると、被写体が流れるようなブレを持ちます。このとき、何が写っているのか明確にわからない要素が含まれているからこそ、見る人は「これは何だろう?」と想像を働かせるきっかけに遭遇するのだと思います。
また、ピントが甘いことで、特定の被写体だけに視線が集中せず、全体の空気感を感じ取ることができるかもしれません。こうした「意識の拡散」は、シャープな写真では得られない独特の空気感・効果を生み出すと考えています。


ピントやブレが意図せず生じた場合、僕は「偶然の産物」としての価値を感じます。※ピントやズレが意図的かどうかの話はまた今度
カメラは設定次第でほぼ完璧にピントを合わせることができると思いますが、それでも何らかの理由でピントがずれることがあります。「制御できない要素」が入り込んだ写真は、狙って撮影できた写真とは違う予測不能な魅力を放つことがあるのではないでしょうか。
これは以前書いた、再現不可能な写真にも関連している気もしています。


ピントのズレやブレは、写真の中の時間を感じさせる役割も持っているかもしれません。写真は一瞬を切り取るものですが、シャッタースピードが遅くなると、その一瞬が長く引き延ばされることになります。動いているものは流れ、静止しているものとの対比が生まれ、写真の中で「時間のズレ」を感じさせることができるのではないでしょうか。


例えば、夜の高速道路で走る車のライトや被写体がラフな雰囲気で動きながらの撮影は、静止画でありながら「時間の流れ」を可視化することができます。こういった写真は現実をそのまま再現する写真にはない、普段過ごしていて目にする機会が少ない違和感のある写真になると思います。



ピントズレやブレによって生まれる違和感のある写真が必ずしも魅力的だとは思っていないのですが、iPhoneやスマートフォンでは撮ることのできない「カメラが撮影可能な写真」という意味でも僕は魅力を感じます。


写真におけるピントやブレの曖昧さは、単なる技術的なミスではなく、表現としての大きな可能性を秘めていると考えます。見る人の記憶や感情に寄り添い、想像力を刺激し、偶然の要素を取り込みながら、唯一無二の瞬間を生み出すもの。そして時間の流れや違和感を感じさせる写真にもなるかもしれません。

またピントが合っていない写真やブレた写真は「失敗作」ではなく、写真の中に「余白」を生み出す重要な要素だと思っており、その余白が見る人の心の中に物語を生み出し、写真をより深いものへと変えていくのではないかという仮説です。

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