イトウアサカの哲学②
前回はディベート部時代の『自分の軸』ができた時の話を書きました。
『”独り”の人と、向き合い続けられる人』であれることは、
自分が大切にしていることの1つです。
”独り”の時、自分が救われた経験があります。
その経験と、自分自身のビジョンを少し書きたいと思います。
1.「独りだった時」┃救われた話
『絶望』していた高校時代、『自分だからできること』があるかもしれないと思えた時が生きる希望でした。
『向き合ってくれる人がいる』と思えた時が自分にとって、世の中に対して希望を持てた時です。
高校生の時、『いくら頑張っても結果が出ない』というつらい経験をします。自分自身が要因ならまだしも、環境によって結果を出せないという状況が自分を苦しめました。(詳しくは以下の記事)
そんな時、『NES2017』という高校生起業家コンテストに出ることを決めました。
高校3年にさしかかり、受験期でもあった私は途中で親にとめられ、最後まで居続けることができなかったのですが、
NESでの斎木陽平さんとの出会いが自分にとって、『諦めない希望』を持てたターニングポイントになりました。
今まで『わかられない"孤独”』を一人で抱えてきた私にとって
自分の『なんとかしたい』という思いは、
『わかられない』ことによって、否定されてしまったり、悪気なく違う道を提示してくる人ばかりでした。
自分のためを想って、言ってくれる言葉だからこそ
自分のことを好きでいてくれる人に本当の自分はみられていなくて、わかられなくて、自分自身を否定されている感じが、辛かったです。
そのなかで、想いはあっても、本当に『実現できる世の中なのか』というところに不安をずっと抱えていました。
何も知らない高校生に、想いがあっても「実現させることができるか」という観点で考えると誰にもわかられないのに、できるはずがない。
想いがあっても、世の中がダメなら結果は出せない世の中なのかもしれない。
環境によっていくら努力しても結果を出すことができず報われない経験をしていた私にとって、「わかられない」現実は辛いことでした。
そんな時に、
『環境のせいで頑張っても結果をだせずに認められない子を助けたい』
という想いに『わからなくても』向き合って話をきいてくれた存在が斎木さんでした。
当時、『なんとかしたい』という想いがあっても大人たちには、相手にされませんでした。
自分の昇華したい想いはわかられませんでした。
そんな中、向き合ってくれて話を受容して聞いてくれたことは自分にとって救いでした。
『初めてわかってくれる大人がいる』
そう思えたのが『まだ何とかなるかもしれない』と思えた生きる希望でした。
自分が「わかられない”孤独”」に対して向き合い続けられる人でいたい。
自分もそういう大人になって希望をつくり続けたいと思ったきっかけです。
2.「向き合い続けること」┃ビジョンの話
『どんな人でも自分らしく生きられる環境を創りたい』
という思いがあります。
中でも、「自分なりに頑張っているのに、世間から見た時に、「結果」として認めてもらえない子」を助けたいと思っています。
今回はそこのビジョンの話を少しできたらと思います。
「自分らしく生きられる」とは何でしょうか。
その子自身の「こだわりが反映された夢」のために走っていられる状態。
だと思っています。
「こだわり」とはその子自身の価値観や今まで生きてきた過程で大切にしてきたこと、そこから形成されたその子自身の性質や性格によってできた「自分にとって譲れないこと」のことです。(「こだわり」については以下の記事でついて取り上げていますのでご興味があれば。)
世の中は、「キャリア支援」「教育問題」といったところで、
「自分らしく生きる」そのためのアプローチというものは増えてきたように思います。
学生の選択肢を増やす、社会に違和感を感じ自分なりに動かないといけないと思える「意識が高い」子には世の中からチャンスがあったり、支援してもらいやすい人な気がしています。
主体性をもってイベント開催やイベントに参加して動いていたりする子は比較的将来に対しても自分が望むような機会をもらいやすかったりするのではないでしょうか。
今の世の中、「自分らしく生きられる」ようにすることに対して関心がある人が多くなってきている気がします。
自分自身、関心を持っている人が増えたことは、より自分らしく生きられるきっかけが増えたからだと思うので、この世の中の流れをみていると自分が高校生のころとは、変わったなと感じることがあります。
ただ、そんな世の中で、救われる人とそうでない人がでてくることに私はモヤモヤを感じます。
イベントを自分自身で主催したり、能動的な子が結果をだせるというのは、
当たり前な世界だと思っていて、その活動や結果を出すことに対して悪いとは思いません。むしろ、自分らしく生きられるようになった結果だと思うのでそういった人が増えているというのは嬉しい事実だと思います。
ただ、そこに対して、「嫌悪感」を持つ人たちが一定数いる。そこに対して、差が生まれることで、動ける人と動けない人で差ができてしまうのは事実としてあるのではないでしょうか。
「行動してないのがいけない」「挑戦しないのがいけない」ということに屈してしまうする人はいると思います。
もともと「受け身」の教育が施されている中で、提示されてこなすことが当たり前の教育をされてきた中で、ものごとを「受け身」でとらえてしまう、それを自分自身で変えるのが難しいのは、その子自身の問題なのでしょうか。
私はそうは思いません。
日本の教育の結果として「受け身」の考えになるのはある意味「当たり前」なのではないでしょうか。
今の世の中、そのような子達は、「頑張りたい」という思いがあったとしても、比べてしまうことで起こる劣等感や自己肯定感の低さから、世間の「挑戦しよう」「行動しよう」というアプローチに気持ちがまけてしまうのではないでしょうか。
自分なりに頑張っていたとしても頑張っていることを世間的には「わかってもらえない」ことによって”孤独感”というものが生まれるような気がします。
「わかってもらえない」”孤独”は、わからないから目を留めにくいし、
自分の能力では届かなかったりするから、後回しにされやすいです。
ですが、そうして後回しにされ続ければ、誰も向き合ってくれる人はいなくなります。
自分にとって「受容して話を聞いてくれた」それだけで救われた経験があります。
「わかられない」”孤独”に対して向き合って、その層に対してアプローチできるように行動すること自体、動こうとしている人がいるという事実自体、「わかられない」”孤独”を経験している私からすると、「希望」にはなる気がしているのです。
アンケートやこれからやっていくインタビューは、向き合い続けて、すくいだすための1つの手段です。
日本の教育によって自分らしくいられない人。
その中でも堅実に生きているからこそ、相手を思いやるからこそ、
人からどう思われるかを気にしてしまい、
「挑戦する」ということに対して怖さや嫌悪感、抵抗感を感じる。
「頑張ってるけど頑張ってることを認められないから自尊心が気づかないうちに下がってしまう」
そんな人を助けれるようになるために、頑張り続けたいです。
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