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青い蜜柑(前編)

いつまでもいつまでも。

「綺麗なものが見たい」
私の視界からみえる世界はどうしても澱んでみえてしまう。
私はそんな世界で、すごく息をするのがしんどくなる。

できれば純度が高く、ほんのすこし綺麗に世界が見えたなら
もうすこし、今生きる世界で心地の良い呼吸ができるだろう。

SNSをみて感じてきたこと、意識高いキラキラ人たちと関わってきてどこか感じていた違和感と。

汚れていると言われてもおかしくない仕事をしてきて
汚い中にピュアで綺麗な物事が隠れているとここ最近感じること。

世の中とずれて生きてきて不安になってきて
魂として、生きるスタンスをみなおしたくて、感情を振り返ってみました。


ep1 青くてダサくて。もっと綺麗なものを見たくって。

何年も前、高校生だったころ、他の人から見たら大したことないことで、
絶望して世界が終わりだと思ったあの日から、
この感情を心から「あなたがあなたらしくいるために使いたい」と切望した。

ここ数年、きらきらした社会のために何かをしたい人たちと
近くにいてみて、どうしてもカッコいいと思ってた価値観が
よどんできて、実はこれらは、すごく青くてダサくて恥ずかしいこと
なのではないかと感じてきている。

社会を変えたいとか、誰かを助けたいという気持ち
ビジネスに転換して、価値を届けたい。

とてもそれは尊くて、正しいことのように思うのだけど、
どこか反面、欲にまみれた底意地悪い欲望にも感じる。

私がかかわってきた人の中で、心の底から、純粋な気持ちで「社会のために」「誰かのために」それだけのために動いて成功した人はどれだけいるだろう。私は自分が出会った人の中では、体感いなかったような気がしている。

社会起業家は、いかにも真剣に解決をうたっているようにみえるけど、どこか見栄や承認、自分自身のアイデンティティにしようと無意識的に善い行いを選択し、どうにか変えたい社会があることや対象がいることを無意識のうちに自分のために、それらがあることをいいように利用しているように感じてしまう。

力がないことに無自覚でSNSで社会に呼びかけて、何かを叫んでいて
とても破廉恥だ。

本当に変わらない助けたい何かが決まっていて、本当に救いになるのなら
既に存在してるサービスだろうし、新しいもので救えるのなら、その人はとてつもない才能と実力を持っているはずだ。

ビジネスは、そういうものでないと成り立たない。
単純に問題解決がお金に変換されるものなのだら、社会経験のない年頃の
私たちの年代でできることなんてたかが知れている。

だから、自分が無力で非力な自覚がないと、「こんな経験をしてきた私だからできる」という全能感で行動してしまう。社会を変えると大きな声をあげてしまう。誰かを助けたいというエゴな正義を掲げてしまう。

でも、これは悪いことではなくて、きっと誰かのためになりたい心は本物だし、果敢に挑めるのも恥ずかしい全能感があるおかげだし、それは結果が出ずとも、よい結果が出たとしても、私はとても恥ずかしくてかっこいい行動だと思う。

きっとこういう青い行動が身になって、実力となってきっと、かっこ悪い今がその先の未来で熟れて美味しく役に立ってくるときがくると思う。


それでも、私がどうしても嫌悪感を抱いてしまうのは、全能感の自分に酔ってしまう人や「社会」や「誰か」を助けたいとヒーローにみせかけておいて、本当は自分のアイデンティティのためにそのひとたちを消費する人たちだ。

こういう人達って、自分が何者かになりたくて、こういう自分でいたいという理想があってそれらになるために、本来心からなんとかしたいとおもって向き合わなければいけない相手をいいように消費しているように感じる。

例えが思い浮かばないけど、なんとなくファッション感覚で、「意識高い系GAL」とか、「サステイナブルな服作り女子大生」とか

事実はともかく、「社会的なことして自立してる自分かっこいい」みたいなブランドを確立しようとファッション感覚で肩書を欲しがって、そういう自分がほしいからという欲で、「誰か」や「社会」を可哀そう化して、被害者にして、私に救われる相手として、自分がかっこいいヒーローになるための世界を手作りしている感じがする。

それが気持ち悪くて仕方がない。
社会に「たいそう可哀そうな人」なんていないのに、
自分の承認欲求とかアイデンティティのために「好き」でやってる行動を、さも「人のため」「世のため」と全面的に出していて、綺麗ごとにしていて、なんだかそれはとても失礼なことなんじゃないかと、
なんだかとても汚れて見えた。

かといって、こういうことが、いけないことではないし、好きにやるべきだとも思うし、
ただ自分は、なんだか恥ずかしくてださいなと感じるし、なんだか汚れて見えたから、ファッション感覚の意識高い社会派にはなりたくないと思った。

できれば、私は「誰か」や「社会」に対して対等に、
真摯に、ピュアな目で向き合いたい。
「つらいときに一緒にいてくれる優しい友達の手」のような問題解決の仕方がしたい。

まるで自分が「救いの手」かのような問題解決の仕方は恥ずかしくて気持ち悪く感じるから、自分はやりたくないなと思った。

私が望む、友達のような横並びの手は、すごく思いやりがあって、かっこつけてなくて、自分のために優しくしようとしていなくて、ピュアな気持ちで目の前の子のために温かい目で差し伸べてくれる手だと思う。

繊細だから、気を使えて、気持ちを察して、汚い部分も見えていて
それを理解できるだけの強さと、うけてきたその子の十字架と向き合える姿勢をもっている。

しんどいとき、横にいる友達が、「自分のために私に対して優しくしているんだ」とか「可哀そうだから話しかけてくれてるんだ」とか、少しでも、上からな視線やエゴな気持ちがあるなら、センシティブになっている相手であればあるほど、敏感に察知する。

だからこそ、本当にピュアな気持ちで強い心を持った人ではないと受け入れてすらもらえなくて、優しい手を持っている人は同じような十字架を背負っていて、同じような汚い世の中が見える人でないといけない。

だから、世間様からみて最底辺であって最悪であればあるほど、安心感が募るし、きっと世間様が言う最低最悪の中の神髄で、耳を傾けられてこそ、この子だから見えているものがあるし、この子になら話してもわかってもらえるかもしれない。と思ってもらえるかもしれない。
それくらい、目の前にいる子から見えている汚くて苦しい世界を自分もみていないと、目の前にいることの心の共有は成り立たない気がする。

そういう優しくてつよい手を伸ばせる人でありたいなと思う。

世間様が言う汚いの中の神髄で、とっても綺麗なものが見たい。
ピュアな人でいたいなと思う。








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