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「そう」に関する覚書

 私たちは「ことば」という〈法〉によって世界を区切っている。これを「コップ」と呼ぶことによって、「コップ」と「コップ以外」を分断させている。「ことば」とは鋏であり、鋏とは認識負担の低減装置である。だが、この分断機器は、あらゆる苦しみを浮き彫りにする。笑うから嬉しくなり、涙が出る瞬間に悲しいという感情を想起するように、ことばがあるから煩悶が生まれる。
 しかしながら我々はもう、ことば以前には戻れない。「ことば以前に戻りたい」「言語のない世界とは一体なんなんだ」という問いの発足こそが、ことばに誑かされていることの証左に他ならず、その穴にはきっと文化的雪かき以外の何も埋まっていない。
 この世の中には、いくつか、ことば以前に戻る方法がある。そのどれもがすべて、死の直前に近づくことだ。死ぬということを理解すること。それは、「死ぬということを理解すること」なんて、どこか紋切り型なことばでは表現できない激動である。ここで述べる「死ぬということを理解する」ということは、言い換えるならば、自我を失うということである。エヴァンゲリオンの人類補完化計画である。私は本当にエヴァンゲリオンのことが大好きですね。
 祝祭、観戦、合唱、乱交、オーバードーズ、瞑想。自我を失おうとする営みは、ひっそりと、だが確実に人間の文化に組み込まれている。

 われわれは欲求としてことば以前に戻ろうと、自我を失おうとする。熱狂するというふうに言い換えてもいい。熱狂は依存を生む。依存は経済を動かす。動き始めた経済は芋蔓式に加速していく。加速の果てには、原型を留めない「効率化」がある。私はそのカスカスの形式を愛したいとは思わない。効率化に加担した人間の、利潤を啜ろうという算段が憎いからだ。
 できれば他者の力を介さずに、というより我が身が置かれている状況にフィットするように、できればあとから負債を支払うはめにならないように、どこかの蓄積的知性のルールにのっとる形で、儀式するべきだと思う。

 ことば以前に戻ること。「わたし」ということばが使えない状態。わたし、と言ってみたときに、「わたしって何?」という問いが、独特の深度で起こること。それは、「わたしとは何者なのか」「わたしとは何を為すべきなのか」という「意味」を伴わず(意味?意味ってなんだ?イミ、という音の響きは一体全体なにのことを表現しているのだ?という混乱を伴い)、わたし、ということばが空虚に霧散し、わたしであるという外殻が世界に融けゆき、わたし、ということばで隔たれた私とそれ以外の区別がつかなくなり、結果的に渾然一体をもたらす、という状態。
 本当に「わたし」ということばが使えなくなったことはあるか。そのとき私は、それどころではない激流に呑まれていた。息も絶え絶え、死にかけだ。死を感じた。「死を感じる」のだ。日常では感じたことのない、純度の高い死の知覚。目を開けても瞑っても異形の紋様の祝祭は止まず、あとから考えてよく救急車を呼ばなかったなと感心するけれど(まあ、無理だろうが)身体から軋む音が聞こえるような嘔吐感にえずく。
 あのとき私の自我は完全に死んでいた。自我の臨死体験。恐怖に抗いたいが抗う自我を持ち合わせていない。私にできるのは、ただ時間が過ぎるのを待つことだけ。やがて吐き気がおさまれば、恐怖感と一体化していたわたしは、安堵感と一体化をはじめる。

 この状態ではもう「そうだったんだ」と発したくなるシニフィエしか知覚できない。すべてが事後承諾の了承、とでもいおうか。私はそれを「そう」というシニフィアンで表現することしかできない。夢が覚めて、ことばで溢れ出したこの世界において、「そう」というシニフィアンはもはや何も指してはいないし、文脈次第であらゆるモノを指しだす。だが、私はーーわたしはそのことを「そう」としか言えないのだ。

 日常的に、あのレイヤーのことばで、「そうだ」と思う。これで、希死念慮ということばが跋扈するこの世界で、ある程度冷静に思索できるようにならないだろうか。

 ただ、「そう」だと思っていると仕事なんかとてもバカらしくてやっていられない。7時間も高級時計をこねくり回してシリアル・ナンバーを確認したり、拷問椅子に座って肩と腰をバキバキにしたり、意味がわからない。意味がわからなさの意味がしっかりわかってしんどいのだ。
 秋風が涼しい。このまま輪郭を溶かしてぼうっとしていたい。なぜ資本家たちの懐を潤すために、限られたわずかな時間を投棄しなくてはならないのだろう?ぐぎ……

 意味のわからないことがわかるうちに、意味のわかることをやりはじめなくてはならないな。そのうち意味がわからなさは鈍磨して、日常に慣れていく。同じことの繰り返しだ。私はこうまでしないと穏やかに生きることができないのか。だが、わずかでも生きるための手段が残されていてよかった。

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