日記126 権力論
盛山和夫『権力』を読んだ。腑に落ちないところがありつつも、とりあえず全体の方向性には賛成、と思った。しかしこの本の書評があるというので見てみると、何と僕の思っていたことと同じようなことが述べられているじゃないか。なんてこったい、僕の独占的なあれこれがなくなった。西阪先生(書評を書いた人)の文章を読めば事足りてしまうじゃないか。さあどうしてくれよう。でもどうするかはもう誰でもわかってるはずだ。
権力を個人間のものとして措定したり、突然外からある図式をもってきて、何の説明もなくそれで解明しようとしたりすることは間違っている、という指摘には頷くことができた。盛山が断言したように、集団間でも成立するし、そもそも具体的な主体Aが振るうものではないのだから。そして、唐突な概念の導入は、その理論を支える柱をプリンで作るようなもので、その概念を証明できないと成り立たない。しかも、それは客観の蓑を着ているので一見説得的に見えるのも悪さをしそうだ(だからこれまでの権力論で力をもったのだろう)。これを克服するために盛山は、まず「権力」を、被説明項、すなわち説明されるものとして扱うべきだと主張する。以前の権力論は、曖昧模糊な「権力」を、説明項としても用いたために混沌としていたのだというのだ。ここまでは、非常な説得力をもっていた。西阪もその書評で肯定的に評価していた。
だが、その説明される権力を表す際に、「理念的実在」という概念を盛山は導入してしまう。個人的にはフーコーのエスピテーメーとどう違うのか腑に落ちなかった。これは、社会においてそうであると一般に認められ、観念上確かに実在しているもののことである。盛山は本書において権力はそれを受ける人の主観によるものだと指摘していたが、それを一言で表すためにこの語を導入したのだろう。しかしこれによって、確かに実在する権力の基礎を、他の論者と同じように、模糊とした概念で建てることになってしまった。彼の批判に基づくならば、この「理念的実在」も、実在する作用や仕組みの面から説明されるべきだが、彼はここではそうしていない。方向性は合っていても、その後の解決法の足元がやはり曖昧なままで、結局は先行の理論家と同じ轍を踏んでしまった。結局、有効な批判を残すのみで終わりかねないものとなっているのである。
個人的に思うに、こうした困難は、いかに曖昧で、実体のない雲のようなものであれ、権力がやはり確かに存在しているために生まれるのだろう。ふだん僕たちは、種々の権力を感じ、それに応えるように動く。職場でも、契約でも、メディアでも、家庭でも、何らかの権力的なものは働いている。
しかしそれはどのように作用しているのか、その根源はどこにあり、どんな仕組みで働いているのか、それを見つけるのは容易ではない。フーコーは関係の中から生起すると言ったらしいが、それはきっと正しいのだろう(盛山もこのフーコーの視点を評価している)。だがどんな関係が権力を発生させることになるのか。これは一筋縄ではいかない。あまりにもパターンが膨大すぎる。しかし、ある特定のパターンにおいては権力が生まれやすくなっている、ということを、僕たちは経験的に知っている。というより、経験的によく知っているからこそ、曖昧になってゆくのだ。どう理論化する対象にしようとしても、個々人の経験が入ってくるから。
これだけ精緻に批判することのできる人間ですら、先行の理論家と同じミスをしてしまう権力論の深い坩堝に、僕も足を取られかけている。
(2024.2.7)
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