孑孑日記⑤ フィクション化って何だ?
いちおう、これでもアマチュア作家(カッコつけているがただの小説を書いているガキだ)だから、小説の定義とは何だと頭の中の誰かに問われることがある。その度(何だろう?)と思うのだが、一応はこんな感じかなぁ、と思っている。それはフィクションとして書かれた、あるいは現実の出来事等をフィクション化した散文が主体のもの、である。これでも書き漏らしはありそうだが、一応これで私小説も射程に捉えたし、戯曲やエッセイを排除できていると信じたい。
だがこの定義でしっくりこないのは、果たしてフィクション化とはどういうことか、である。ひとつには、作者を作者自身から切り離し、切り離した先の作者自身を、さもフィクションを書くときのように、想像上の人物として作品内に登場させる、と言えるかもしれない(ここでの「作者」は、「現実」と取り替えることもできる)。しかし何だか納得できない。読んだことはないのだが、『苦海浄土』はフィクションである、と石牟礼自身が言っていたと聞いた記憶がある。しかし『苦海浄土』は、ノンフィクションと見なされているではないか? 作者がフィクションとして書いたのに(現実を生々しく活写したとはいえ)?
ちょっと待て、気づいた、僕はある作品が小説なのかどうかの判断を、読者、というか世間がすると考えているようだ。とすれば、冒頭の定義もこう書き直すべきではないか?
「フィクションとして書かれた、あるいは現実の出来事等をフィクション化したと一般的に見なされている散文が主体のもの」
(2023.7.26)
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