孑孑日記㉑ 与太話part1
そもそもいつも与太話しかしていない気もするが、わかって与太話をするのは今回が初めてなのでpart1である。さて何についての与太話かというと、権利と義務である。法哲学なんか何も知らん(せいぜい「無知のヴェール」の素人並み知識)ので、一切正確性を保証しないし、特に調べてもないから無責任極まりない。それでも僕は書かなきゃいけないので、このまま進めさせてもらう。
よく大人が、下に見ている人に向かって、「権利を主張する前に義務を果たせ」と言う。これに腹を立てていた人も少なくないはずだ。僕もそう。そしてこれは明らかにおかしいはずだ。
まず一般に、義務と権利は対義語である。そして憲法上で対義語的にいわれる義務権利に、教育に関するものがある。
・教育を受ける権利
・教育を受けさせる義務
一見してわかるように、権利と義務は相互に依存していて、どちらか一方が欠けても成り立たないものである。そしてそこから僕が感じるのは、義務というものが、権利を充足させるために、周りの人がどうこうさせることを指しているのではないか、ということだ。言論の自由について僕は、自由に表現する権利があると同時に、他者がそれについてどうこう表現するのを認める義務があると考えているが、これもまた、自分の表現の自由を充足させるために、他者にも同じ権利をもたせ、自分の自由を侵さないようにさせるためのものである。すなわち、権利を充たすために他者がするべき(=他者にさせるべき)ことを義務と呼ぶのだ。
これをたとえば、労働に置き換えてみよう(絶対に誰かが考えているが、知ったことか! これは与太話だ)。一方に労働する権利を置く。そして前述の前提に立てば、ここで生まれる義務は、労働をさせる義務になるだろうか。要は、社会(仮にそう言っておく)は人々に対して、仕事を用意しなければならない。また、それによって労働のために人を使用する権利が生まれてくる。その際、使用者は労働者を拘束し、他のことに時間を使わせないでいることができる。この、労働力を拘束する権利の対極には、労働力の拘束を正当化する義務が置かれなければならない。すると、何になるだろう。それはおそらく、拘束される側が拘束されることによって失うものを補うことだろう。それを与え続けることで、拘束できる権利を維持できる。
逸れたし不安的な論理展開になったが、ともかく言いたいのは、Aがもつ権利を行使するためにAの義務があるのではなくて、Aがもつ権利を充たすためにBたち(ときにはA自身も含むが)の義務Aが存在するのである。
だから、義務を果たさなければ権利はないということはなく、むしろ権利を充たすために義務があるのである。
僕の権利と義務に関する考えは、概ねこんなところである。
(2023.8.13)
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