孑孑日記⑳ 本を読んで何をしている?
両親と話していて、まったくお互い話が通じあわないことがある。僕は本を読んで抱いた思いや問題意識、あるいは形づくられた信念等も、本人の経験に基づくものだと思っている。だが両親は、その読書体験は、それは実体験ではなく、その他で自分が経験・体験したものがないとだめだという。もっとも、過去の経験を僕が糊塗して口に出していないことも考えられるが、しかし読書だって体験のひとつだろう、と僕は思う。
そもそも自分の見知ったことをぜんぶ体験できるわけがなかろう。報道や友人の話を通して、間接的に接種している場合のほうが多いと思うのだ。そのために行動を始めることに価値があり、それがなければきみのその思いの価値はかなり落ちると言われればそうかとも言ってしまいそうになる。だが、全員が全員できるかといわれたらそうではないし、諸事情をこの言説は考慮していない。この辺は常々不満に思うところである。
ところで僕は本を読んでどうしようとしているか。今朝思ったのは僕は本を相談相手にしているということだ。現実の辛さを逃れたい、知識を得たい、頭を使いたい、肯定してもらいたい、自己啓発に使う、等々の目的でなされる読書だが、実際は本を通して、実際自分が何を望み、何を感じ、何を考えているのか、それを明らかにしようとしているのだ。
リアルの相談について、人はしばしば建設的なアドバイスを求め求められている、と考える。だが相談に応える際にすべきはアドバイスとかではなく、相談者が何を望んでいるのかを自覚させることだと思う。相談するときには何かしら思うところがあり、それに確信がもてないから他人の意見を求めている場面が大半だ。もちろん、相談者自身が自覚していないことも往々にしてある。そこを詰めていけるのが、力のある被相談者だと僕は考えている。
少し逸れたが、相談は自分の考えを明確にするものである。しかしそうしたいときに、必ずしも誰かが応えてくれるわけではない。相手にも予定とか気分とかがあるのである。そんなときに本が頼りになる。こちらに合わせて臨機応変にしてくれはしないが、そのときに関心のある話題に関する本ならば、その人なりの言葉で考えや意見を述べてくれているはずである。それを読んで僕たちは「そうそう、そう思っていた」とか「それは違うだろ、〇〇だろ」とか「うーん、そうとも言えるけどこっちじゃないかな」とか、そんな思いを抱くことができる。ここまでくれば相談は完了である。その気持ちをもとに、自分が何を肯定的に評価し、何を否定的に評価するのかを理解する。そこまでくれば、あとは自分で決めるだけである。そして本は手元にさえあればいつでも「相談」に応じてくれる。
だから僕は本を読んでいるのだと思う。
(2023.8.13)
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