孑孑日記⑥ ポジティブシンキングはアヘンだ
僕はネガティブな人が嫌いではない。むしろ好きなくらいだ。何でかって、一般にはネガティブなんて嫌な気になるから口に出すなと弾圧されるものなのに、それでも外に出すということは、その人がとても正直であって、きちんといま自分が弱気になっていると認められているように思えるからだ。そこで止まってしまうと、消極的ニヒリズムと同じようにいじけてしまい、他の人の足を引っ張るようになりかねないけれども、それにさえ気をつけていれば、そこからさあどうしようか、と積極的に(断じてポジティブとは言わないぞ、誤解されるから!)歩きはじめることができる。それに、悪いことも受け止められる可能性が、ポジティブに囚われている人よりも高くて、他者への想像力ももちやすいと思える。ポジティブに囚われていたり、ポジティブしか知らなかったりすると、ネガティブへの耐性が弱く、簡単にそんなのやめろよ、表に出すなと、心の声を躊躇いなく封殺できてしまう。ポジティブは一般に印象がいいし、それゆえにこれが正しいのだと信じ込みやすいので、立場の異なる者、ここではネガティブな者に対してあっさり異端認定ができるのだ。
公務員試験の面接のときのことである。グループ面接で、他の受験者のひとりがネガティブな人が苦手だ、と言った。そしてそのような人にどう対処するかといえば、周りの人の気が滅入るから口に出さないでと言う、と答えていた。公務員という立場でそれはいかがなものか? と思ったが、それ以上に僕が不安に思ったのは、その回答が、とても真っ当で、社会性(協調性?)のあるものに聞こえたことである。僕があんまり協調性に長けておらず、集団の中で浮き続けていたから、その人のように僕とまるきり違うタイプの人が社会的にうまくいくタイプだと思いがちだというのはあると思う。しかし、別の民間企業でも、別の状況ながら似た態度をとります、と宣言した受験者がいた。たぶん、就活市場、すなわち表社会では、ネガティブは受け入れられないものなんだろう。自己啓発の影響力は、こうして蔓延しているわけだ。
ポジティブでいることは実際気分がいいものだし、明るく見えるので周囲の覚えもいい。いま、自分たちという範囲で考えるならば、非常に有効なものと言える。
しかし、ポジティブ以外はあり得ないとなるとこれは問題である。誰も欠点を指摘しないし、破滅的な方向に向かって加速していても、誰もブレーキを踏んだりしない。気分に酔い、視野に靄をかけ、異論をエリアから締め出す、快楽がここには詰まっている。だからポジティブはアヘンなのだ。僕はアヘンを喫まず、ネガティブな、悪いものを見たいと思うし、そちら側の肩を持ちたい。なぜなら、現在は完璧なときではないし、そこから立ち上がって挑むには必ずネガティブを受け入れ、その地点から始めなければならないからである。
(2023.7.27)
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