日記121 絶望とはコメディである(続?)
前に書いたことをまた語り直すだけのことになるかもしれないけれども、思いついたから仕方ないと思ってやるようにしている。だいたいこんな書き散らしに計画性なんぞあるわけがないから、それを咎められても知らん、という話である。
んで思いついたのは、絶望はコメディだという主張だ(これ絶対に前書いたよ、ただちょっとの更新はあったからそれで許してよ)。『人間失格』には絶望がコメ(喜劇名詞)だという記述はなく、僕が絶望だと思っていたのは「罪」という単語だったが、しかし「絶望」がその場面で取りあげられていたとしたら、きっとトラ(悲劇名詞)ではなくコメと主張されていただろうし、希望もきっとトラだったにちがいない。どちらも、それ自体のもつ悲劇性/救済性とは正反対のものがあってこそ、はじめて浮かびあがってくるものだから。『人間失格』では、何かしら原罪を背負ったかのように大庭葉蔵は書かれ、そのなかで彼はさまざまに行動し、失敗し、転げ落ちる。その筆致は至ってネガティヴな空気に満ちているが、それと同時に、滑稽さも感じずにはいられない。最近伸びてきている吉田夜世の曲「オーバーライド」においても、「限界まで足掻いた人生は/想像よりも狂っているらしい」と歌われる。「限界まで足掻いた人生」というからには、本人は死にもの狂いで、大真面目であると考えるのが自然だが、しかしそれを外から見る側からすると、なかなか狂っているように見える。この曲の歌い手はそれを聞いて、「限界まで足掻いた人生は/想像よりも狂っているらしい」と、伝聞の形で歌うのだ。うまくいかない状況から抜けだそうと大真面目に行動したが成功に結びつかない姿は、非常に滑稽に映る。しかし本人からすれば、この苦境から這いあがりたいと切に願っており、絶望的な心持、あるいは絶望そのものに浸っている。這いあがりに失敗すれば、その絶望感はさらに深まることだろう。この本人の苦しみながらの行動と、それを端から見た際の滑稽さとの、あまりにも本人にしてみれば救いようのない断絶。しかも、滑稽に見るなと言っても、周囲からしてみれば、でも滑稽に見えるもん、としか返答できない。この間にはすり合わせのための回路はない。だから絶望に浸る本人を置いてけぼりに、かれが滑稽だという認識だけが固まってゆく。この論理ゆえに僕は、絶望はコメディなのだと主張するのである。
(2024.1.29)