日記100 インターネットの陰のほう
この前、紫藤ナナ主催の「認知の歪み女コラボ」のアーカイブを見た。あれは傑作だと思う、珍しく複数回見てしまった。
彼女と深層組らが中核となる、メンヘラ系VTuber界隈のことが、僕はぜんぜん嫌いではない。なぜ嫌いではないかと問われると、そこにはいくらかの自己憐憫が含まれているのが自分でも感じとれてしまうから口外は避けたいが、しかしほぼ文学を除けば居場所がなかったような人間が彼女らのような気がしてならない。きっと、生身でなく1枚ライブ2Dの皮を被って自己表現ができる時代でなければ、ごく近しい仲間内でのみ彼女らの苦境は知られ、そこで完結し日の目を見ることはなかっただろう。それが公に語れる時代になったのである。
息根とめるの切り抜きも見た。教育虐待の経験を、声を震わせ息が詰まりかけつつ語った姿には同情を、たといそれが安全地帯からの優越心からであろうとも禁じえない。ぐるぐるつらつらと、ほとんど言葉の流れ出すスピードをコントロールできないのは、それを語ることがストレスになるのに、語らずにはいられない心のやぶれに他ならない。先述の「認知の歪み女コラボ」でいえばこは太郎である。家族や自分への信頼感が、回りすぎたこまみたいに不安定なのに、それを糊塗しようとして混乱する。ストレスと苦痛と不安と愛慕と郷愁が混ぜっかえり、整理のついてない状況である。この心境を、まるで理解できていない視聴者は、コメント欄を見るかぎり少なくない。いや、わからないことが罪と言いたいわけではない。ただ、彼女らが真実にそのようにに感じ、それが心の底まで染みこんでいまでも彼女らの人生に影響、主に良くない影響を与えつづけていることには、歩み寄ってほしいなと思ったのである。
(2023.12.21)